義というものは決して、ひとつではなかったのだ。
杓に足元を掬われた思いだった。
三成の死の報せを受け取ったとき、遠くで馬がいなないた。今にも消え入りそうなほどに弱かったそれが、次第に雄々しく耳をつんざく。
幸村だった。
背後にせまる、憎き山犬の遠吠えではない。若きけものの、悲しみと、ぶつけようのない憎しみの雄叫びだ。
もちろん、幸村はそこにはいない。ただ、私の耳へ、痛いほどに届いた。
それでも、私が願った、三成の見た世はもう見ることはない。
ああ! 私が、約束さえ違えなければ!
義とは、もしや、とんでもない偶像だったのでは?(ならば、偶像崇拝?)
私は根本を勘違いしている?
義とは、決して手を差し延べる人間ではないのだ。
小さなこどもが泣いている。手を差し延べる大人そのものが義ではない。義とは、手を差し延べた人間の、自己満足にしか……。
三成が、心で叫んでいる。手を差し延べたのは、誰だ。
私でも、大谷刑部殿でも、ましてや島殿でもない。誰もいない。
義は、私たちが自発的に作るもので、ただ待っていてもなにも起こらない。
三成は、義に生き義に死んだ。
私の義は決して、責任を感じて、自己満足に死ぬことではない。
ましてや、私に義を説いた人を踏みにじることではない。(同時に、友を裏切ることも。しかし……)

家の存続。
それが、友ひとりの代償。残された友との離別。私の孤独と義。




「ところで、手を引っ込めたときのこどもの表情を、覚えているかい?」