「煙草、くっさい」
「あ、すみません」

 そう、不機嫌に告げられうやうやしく灰皿に煙草を押し付け、手をパタパタと振って煙草の煙を拡散させた。焼け石に水のようなものだが、なにもしないよりはなにかをしたい気分だ。
 不快感を隠そうともしない三成さんは、じっと灰皿に溜まった吸殻を睨んでいる。そう、どこかで聞いたような睥睨(へいげい)という言葉がよく似合う睨み方だ。
 だが吸殻は動かない。飽きたのか今度は俺に視線を送り、なにかを言いたげに口元を緩ませる。

「……爪が黄色い」
「んー、ヤニですかね」
「不潔」

 彼の潔癖は少しひどい。強迫神経症に近いものがある。
 手を洗う回数が尋常じゃないし、昼だって食堂やコンビニなんて絶対に利用しない。それから、ふとした瞬間にとてつもなく不安そうな表情をする。その表情が(儚げ)だなんて思っていた青い時期が俺にもあった。目に付いたなにかを過去と結びつけて、ありもしない恐怖でも感じているのかと思った。
 だが違う。
 彼の不安そうな表情は単純に(家の鍵、ちゃんと閉めたっけ。ガスの元栓はどうだろう。窓の鍵は、雨戸は閉めたか。水道は流しっぱなしになっていないか、電気はつけっぱなしじゃないか)という、なんとも生活感あふれる不安だったのだ。
この人の場合、ちょっとそれが行き過ぎているせいかしょっちゅう不安に顔をゆがめている。
 特に(これはひどい)と思ったのが(俺が出かけている間に、気持ちの悪い虫が家中を這い回っている)という強迫観念に近いものを感じて、いても立ってもいられず、帰りに殺虫スプレーやらなにやらを買っていったことだ。
 過ぎたるは及ばざるがごとし、考えすぎも毒だな。
 そこで彼はふと顔をゆがめた。またなにか、不安なことを見つけたのだろう。これは『思い出した』なんて言葉じゃなくて『見つけた』と言うほうがいい。

「今度はどうしました?」
「……俺が出て行ったあとに蓄積したホコリのことを考えると、気持ち悪い」
「そりゃ、しょうがないですよ」
「だが、そのまま靴を脱いであがったら靴下に汚れがつく」
「それもしょうがないじゃないですか」

 『しょうがない』が通じないのだ。
 洗えばいい、と言えば『一緒に洗濯したものも汚れる』だとか言い始める。当たり前で、しかたのないことまでどうにかしようったって無理だ。しかし、実際に彼は不安で不安でしかたないときはひとつひとつ手洗いしているというのだから、俺は言葉を失ってしまう。

「左近、今日もそっちに泊まる」
「別にいいですけどねえ」

 最近彼が見せる奇妙な行動はこれだ。
 家の状態が不安でしかたのないときは俺のとこに泊まりにくる。正直、俺の家は三成さんから見れば『不潔どころの問題じゃない』だそうだ。
 だが、それがある種安心するという。
 自分の行動で自分の領域を汚す心配がないのだ。
 彼は自分の家で寝るときは、寝相ひとつすることも不安らしい(それによってシーツが乱れるのがイヤだと)。だが俺の家で寝るときは、どれだけシーツを乱しても気にならないとな。そりゃ、乱れたら直せばいいだけの問題だから自分の家でもそうすればいいのにとも思う。
 まあ、一日家に帰らないと不安はさらに倍増するものだ。
 彼は一日家に帰らなかっただけで、空き巣に入られたかのように家が汚くなっているとでも思っている節があるんじゃないだろうか。家に帰るのが怖いとまで言い出す。
 そういうわけで、ほとんど俺と三成さんは同居状態だ。
 女を連れ込むことは完全に不可(三成さんの女嫌いは異常値だ)。
 動物も不可。
 だらしないカッコも不可。
 煙草は情状酌量でベランダ。
 酒も不可。
 寝る際はいかなる理由があろうと三成さんの布団に入ることは不可である(寝相でもだ)。
 食事は出来合いのものは不可。
 不可だらけで意識が遠のきそうだ。
 だが、悲しいことにそれにも慣れた。
 衛生面ではそこそこの水準を持つこの国ですら、彼は息苦しく生きている。なんも気にしない俺にはそのつらさがよくわからんわけだが、少なくとも彼のように表面上は平静を保つ、なんてことは難しいだろう。
 彼は、他人に触れることも嫌いだ。

「で、夕飯はなんですか?」
「ブリ大根」

 他人の作ったものなんて到底食べられない彼は、料理だけは絶対に自分でやる。その点は、俺も楽でいいと思っている。
 そして彼はまた、なにかを言いよどむように口をまごつかせ、手を握ったり開いたりする。

「なにか?」
「い……、いや、手が、ちょっと」
「手が、どうかしました?」

 腱鞘炎かなにかか。
 痛いとか、つらいとか、そういう感情をあまり表現しない人だから珍しい。

「いや、なに。一応は、恋だ愛だと言う仲なのに手もつないだことがなかったな、と」

 そうそうそう。
 まさか、そのまさかだ。とんでもないことに、俺はこの潔癖症なんだか強迫神経症だかな男に惚れている。相手が相手である手前、がっつくことも不可能。まあ、俺も年を取っているほうだからそこまでしんどいとは思わないが。
 彼は彼なりに気にしていたんだろうか。まあ、近寄ったところで般若のごとき剣幕で怒られるだけだからあまり近寄らない。

「じゃ、帰りは仲良くお手てでもつないで帰りますか」

 イヤでなければ、ぜひに。

「……変な男だな」
「知らないかもしれませんが、体温というものはとっても多くを語ってくれるんですよ。水が電気を解すようにね」

 しかし、水よりも水酸化? ナトリウムだかなんだかのほうがよく通すんですっけ。まあ、別にどうでもいいか。









07/01