少なくとも、今はまだ大丈夫だとは思う。


「おやおや、三成さん。濡れ鼠じゃないですか」
「雨に降られてしまった」

降られてやるつもりなど、ほんの少しだってなかった。
そもそも、家を出るつもりなんてこれっぽっちもなかった。俺はただ『牛乳がなくなっているな、買いに行こうか、やっぱりやめよう』ということを考えただけなのだ。
それがいつのまにか『左近の家に行こう』へ変わっていた。変貌を遂げすぎなのだあほ。

「とりあえず上がってください……、あ、でも玄関にいてください。今タオルかなんか持ってきます」

薄手のシャツを羽織った左近の背中が遠のく。
ゆらりとたゆたう黒髪が犬のしっぽのようだ。
陳腐な言葉だろうが、多分俺はこの男に対する奇妙な独占欲というものがある。

「水気をきったら洗面所で着替えてくださいよ。そのカッコで歩き回られると困るんで」

ずっと年下の俺に敬語を使うおっさん。
そう、おっさんなのだこいつは。目元にはまだ浅いがシワがあるし、腹だってちょっとたるんできている。無精ひげだってしょっちゅうだ。
そんなおっさんをこの俺がどうしてか独占したいだとか、信じるに値しない喜劇だと思うのだが、現実であったりする。
事実は小説より奇なり。
奇を衒いすぎている。

「で、今日は何の御用で?」
「家に牛乳がなかった」
「んじゃま、暖めますか」

そういえば、寒いかもしれない。
ソファに座って、テーブルの上に散乱する私物を観察する。
煙草、灰皿、ライター、本、リモコン、空き缶、DVD。
灰皿が目に付いた。
ガラスの、見るからに重みのある丸い灰皿だ。

「だめだ、ガラスだと、足りない」
「なにがですか」
「なんでもない」

牛乳は温めている最中らしい。
ガラスだと、割れてしまう。痛いだろうが致命傷にはなりきらない。もっと丈夫な、陶器かなにかがいい。いや、それよりもブロンズのあの小さな像のほうがいい。

「とうてい現実にする気のないことばかり考えている」
「ま、空想もほどほどにしましょうね」
「そうだな」

たとえこの手で殺めたとしても腐敗してしまう。
食したとしても消化してしまう。
そもそも、殺めてしまったら新しい左近が見れなくなってしまう。

「とっても陳腐」
「笑えますか?」
「多分」










06/26