「殿」

 これ以上にないほど、目一杯にしめっぽく、かつ、扇情的にその言葉を舌に乗せた。しかし、殿はちらりともこちらを見ない。
 何度も殿と呼んでも、殿はこちらを見ない。
 かわいこぶって尻上りに呼んでみたり、怒っているように怒気をはらんでみたり、今のように湿らせてみたり、早口で何度も殿と叫んでみたりと、様々な方法でしかけてみるのだが、殿は絶対にこちらを見ない。
 人間がなにより、自分の存在の根幹を揺るがすと感じるのはこういう、無視というものだ。

『もしかしたら自分は、本当にここに存在していないのかもしれない』

 そんな不安を感じさせるということを知っているからこそ、俺は他人のことを無視するなんてしようとも思わない。
 この無視というものは、“いるはずの人間をいないように扱う”のだから、すべからく根気がいる。つまるところ、我慢勝負のようなものだ。

「とーの!」

 嫌いと思っている人間には平気で無視はする殿だが、俺を無視したことなんて一度もない。そりゃあ、拗ねてそっぽを向いて聞こえないフリなんてものはザラにあったものだが。
 だから、どうして殿が俺の呼びかけに答えてくれないのか、俺には理解しがたい。
 眠いのだろうか。
 いや、眠くとも殿は無視などしない。悪くても「今は眠いから後にしろ」と、だるそうな言葉を投げるくらいはするだろう。
 正直なところ、なにかに関して怒っているのならそうと言ってくれればありがたい。拳に訴えるでもまだいい。だが、こうして俺を存在しないように扱われてしまうと俺にも対処のしようがないし、理不尽だと思わざるをえない。だが、むしろ殿は物事をズケズケと言うたちの人間だ。
 俺は殿の考えていることがさっぱりわからない。
 普段なら手に取るように想像がついたというのに、今回ばかりは俺もお手上げだ。

「殿……、左近の負けですよ。だから、そろそろ、なんでもいい、喋ってください」

 殿は、わずかに身じろぎし、首をゴキゴキと鳴らした(やりすぎると首が太くなるからおやめになったらどうですか、と三度くらい言ったことがある)。

「そして教えてください。殿、教えてほしいのですよ。どうして殿はこんな場所におられる? なぜ、そんな、落武者のような格好をされている?」

 気にしてはいたけれど、殿を呼ぶことのほうが俺には大事だった。

「殿、左近が見えるのなら、左近がここにいるのなら、左近の名をお呼びください。どうか、左近の名を呼んでください。……」

 噛みすぎていびつな形になっている爪をさらに噛み締めた殿は、憎々しげに呟いた。

「家康、……」

 なんとなく、そうであるのだろうとは思っていたけれども、俺にとっては殿を呼ぶことや殿に名前を呼んでもらうことが、最重要案件だった。









06/22