今夜はどうにも寝付けない。
最近、毎朝のようにナンコロと三成を構いに行っているから自然と床につくのも早くなっていたのだが。こうも寝付けないと、明日の朝はおそらく寝坊するだろう。
乱れた髪を手櫛で整えながら、中庭で水面を揺らす池を眺める。暗く影になっている木が風に揺れている。今日の風は湿っている。体がべたべたして少し気持ちが悪い。まあこの国で暮らしているうちに嫌でも慣れるものなのだが、この不快感に慣れるというのもなんだか嫌なものだ。
変わらない中庭でも眺めていれば眠くなるだろうか、と思ったのだがむしろ、目が冴えてきてしまった。少し運動でもして、体を疲労させようか。ああ、そうだ。書でも読んでいようか。いや、それは逆効果だ。熱中しすぎて、時を忘れてしまう。
寝てしまいたいのに寝付けない。今までまったく無かった訳ではないが、やはり対処に困ってしまう。
そこで、散歩をすることにした。毎朝ナンコロと三成がいるところまで行けば少しは疲れるだろう。もしかしたらナンコロ自身がいるかもしれない。そうしたら少し構ってみよう。
「寝付けないので、少しだけひとりでそこらを歩き回ってくる」と言って、屋敷を出る。湿ったぬるい風が吹いている。まるで嵐の前のようだ。もうそんな時期だったか。
空を見上げると、重い雲が立ち込めているのか星の姿は見えない。星の数を数えてみたら眠くなるかと思ったのだが、ないものはしかたない。
角を曲がったところで、ぎょっと心臓が跳ね上がり、冷や汗が流れた。少し離れたところに人が立っていたからだ(霊的なものか!)。この場合、すれ違うときに「私の赤ん坊、どこですか?」なんて聞かれてしまったら私は今夜、眠れないかもしれない。
しかしよくよく見てみると、女性にしては少し体つきが良い。男か。男ならば……、すれ違うときに「俺の女房返せー」などと言ってどろどろに溶けた顔を向けられたりするかもしれない。……少し怖い。このまま引き返そうか。
弱腰になっていた私だが、ふと気がついた。その人間が立っているのはいつもナンコロと三成を構っている場所だ。
もしや、三成か?
そう考えると、男すぎず、かといって女性にも見えない中性的な体つきに納得がいく。こちらに背を向けているから確信は無かったがあれは三成だ。
私が驚かされたのだ。三成も驚かしてやろう。
そういう悪戯心が芽生えて、足音を忍ばせて三成に近づいてゆく。こんな夜中にいきなり声をかけられたら誰だって驚くだろう。たとえ三成でもだ。
だが、近づいたところでどうやら三成の様子がおかしいことに気がついた。なにがおかしいと問われると、これだ、と答えることはできないのだが、雰囲気が違う。ばかばかしい答えだが、普段の凛とした張り詰めた雰囲気ではなく、むしろ引きずられそうなほどに重く、這うような雰囲気。
もしや、本当に幽霊か?
その考えに行き当たった。私は体勢を変えずに、じりじりと後ろ向きのまま戻っていく。しかし、石に気づかなかった。かつん、と音を立てて石が撥ねる。勘弁してくれ、と胃が引き締まる。
「誰だ!」
「うわっ!」
「……?」
「みつなり……?」
みっともないことに、本当に驚いて自然と声が出てしまっていた。しかし想像していたようなおどろおどろしい雰囲気も無く、むしろ冷静になって、三成の声だと気づいた。……失礼なことをした。
三成は私に気づくなり、眉を寄せ顔を逸らした。確かに、最近付きまとうようにしょっちゅうここに来ているが、さすがにそういう反応をされると傷ついてしまう。
「兼続……。こんな時間に、こんな場所で、どうしたのだ」
「いや、寝付けなくてな。なんとなくここに来てしまったのだ。ナンコロでもいないかな、と」
「いない」
一言でそう纏められ、はあ、と言ったきり二の句が次げなくなった。その声音が妙に突き放すような、切羽詰っているような、いやむしろ怒りすらも滲んでいるないまぜの色だったからだ。
こういう声の人間は、一体どういう心情なのか、恥ずかしいことに私にはさっぱりわからなかった。
「三成は? どうしてここへ?」
「お前と同じだ」
「……なにを怒っている?」
「……別に」
素っ気なく返される。その間と声音は「別に」なんてものではないだろう。
私に言ってもいいものかそうでないか悩んだのであろうが、もったいぶられているような気持ちになる。だが、ここで追求するというのはまた随分と無神経だ。
「そうか」
「……聞かないのか?」
「聞いて欲しくなったら聞いてやろう」
「たいしたことではない。本当に」
「どんな?」
「ナンコロが死んでいただけだ」
「それは……また、随分と急な話、だな」
あまりに三成が淡々と言うものだから、驚きに任せて声を荒げることも出来なかった。ただ言葉が不自然につっかえてしまった。
三成の雰囲気が普段と違う、という勘はあながち外れてはいなかったのだ。口にはしないが、深く悲しんでいるのだろう。三成はなぜか、感情を出しても良い場所でこらえて、そうでないところでつい出してしまう。私なりに考えてみたのだが、どうやら自分が関連することではあまり感情を出さないようだ。不思議な男だ。
しかし、私がやってきたのは本当に偶然であるのだ。ひとりでいるときくらい、可愛がってきた存在の喪失に悲しむことをしても、誰も見ていないし、誰も後ろ指など指さない。
ここまで考えるのに、随分と時間がかかった。少し頭の中が整理しきれていないようだ。その間、私と三成は黙っていた。
「切られていた。多分、たいして名も知れていないような輩が粋がって試し斬りでもしたのだろう」
「……ああ、たまに、そういう話を聞くな。動物を使って、という」
「俺もそういう話はよく聞いていた」
自嘲的な笑顔。珍しく眉が下がっている。
三成の考えていることはまだ予想できない。一見複雑だが、開けば単純。まだ開いていない。
「ばかだと思っている、自分が」
「三成が? ナンコロを斬った輩ではなく?」
「いや、俺だ。そういう話もよく聞いていたし、それなのに野良猫なんか中途半端に可愛がって」
ああ、言いたいことが少しわかってきた。
三成は自分の半端な愛情を与えていたことをひどく後悔している。もし最初からそんな優しさに触れさせていなければ、きっと猫もそこまで絶望しないだろうし、自分もその感情を知らずに済んだ、と、それくらい考えているかもしれない。
「自分の屋敷でちゃんと飼うわけでもないのに半端に世話をして、人間に対する警戒心を弱まらせてしまったことを後悔しているのか?」
「……いや、少し、違う」
「違う?」
「多分、俺は、猫を世話することで安心していた。どういう種類の安心かはわからぬが、自己満足的なものだった。奇妙な優越感でもあったかもしれない。人間である俺が弱者と見做した生き物を養うという奇妙な優越感。笑うか?」
私の予想が外れていたことに少し驚いたが、人心というものは常々そういうものだ。むしろ、予想通りの感情なんておもしろくもない。それにこんな若造の私がそう簡単に相手の心を細かく予想できるなんて、おこがましいくらいだ。
しかしここまで言ってもらえると、手に取るようにその心が見える。
つまり三成は、すべて自分の自慰行為にしかならなかったということを思っているのだろう。全て自分の自己満足のため、愉悦のため、一種の刹那的快楽のため、と。なぜ可愛がっていたのならば、屋敷に連れて行かなかったのか、自分で考えているのだろう。そしてもっともらしい答えを用意して自分で自分を自嘲している。
「いや、笑わない」
「……いっそ、笑ってほしいくらいだ」
「笑わないな。考えてみろ。ナンコロだって『しょうがない。お猫様が人間と遊んでやるか』とか思っていたかもしれないだろう。つまり、お前の『人間が自分を強者と思い勝手に弱者と見做した生き物を養うことはなんと驕っているのだろう』という考え自体が驕りではないのか?」
「……それもそう、だな」
三成は薄く笑う。
これほどおとなしい三成は珍しいな、と頭のどこかで思ったが口にはしなかった。口にすればきっと三成はいつもの自分を思い出そうとして、少し無理をするかもしれない。空元気ほど見ていてやきもきするものはない。
「俺はそろそろ帰るが」
「……」
まあ、いつもとあまり変わらない具合で三成が切り出した。こんな短い時間でそう切り替えられるほど単純な人間とは思っていなかったが、私が来るまでに長いこと考えていたのだろう。
三成の頭に手を乗せて、ぐしゃっと掻き乱す。これといった目的があるわけではないのだが、そうしたくなった。
「わっ、おま、何をする!」
「別に。私も帰る。気をつけるんだぞ」
「……ナンコロ、俺の屋敷の庭に埋めたから暇なときに来るといい。お前が来て喜ぶかは知らんが」
「大喜びさ。さっそく、明日の晩にでも行かせてもらおう」
「ああ、じゃあな」
「また明日」
三成は私の前ではきっと泣かないだろう。人前で、むしろ誰もいなくても泣かないのかもしれない。けれど、ひとつだけ特別な場所があるのだ。
なぜ私が断定するか。しかしそういうものなのだ。
私がその特別な場所にはきっとなることはできない。一瞬たりともその場所になれればいい、と思ってしまった。
刹那的な自慰行為だ。
いや、全てが自慰行為にすぎない。
全てを押し付けていた。私がそういう『理想』を押し付けるばかりで、その理想に満足している。
私は誰に笑ってもらえばいいのだ。
03/23
(のらねこを見ていると、よくこういう気持ちになる)