「殿、左近はちょっとおもしろいことに気付きましたよ」
「なんだ、言ってみろ」

 空は浅い水色で、雲が滞りなく移動していた。つまり、統計的に最も多い状態の空だった。少し蒸し暑くも感じられるが風通しのよいその部屋は心地よい温度に湿度を保っている。
 邪魔くさい長めの髪をくくっている三成は、同じように髪をくくっている左近の背中を見た。三成は正座をして文机に向かっているが、左近は縁側で足をぷらぷらとぱたつかせている。その様子がそこらへんの小娘のようだと三成は顔をしかめた。左近という男は奇妙な状況で似つかわしくないことをすることが多い。
 筆を止めた三成は左近の答えを待っていたが、左近はなかなか答えない。三成の頭の中では今この瞬間の無駄に使われた時間(ロスタイム)によって得られる損失を考えていた。
 結局、左近が答える前に三成は気を取り直して諸事に没頭することに決めた。

「殿って、怖いものありますかねえ」
「さあな」
「さあな、ってあるでしょうに。ないんですか? ほら、蜘蛛が怖いとか、毛虫が怖いとか、物の怪が怖いとか」
「……」

 ようやく左近の答えを諦めたというのに、その途端左近は口を開いた。三成はそれを非常に面倒に感じたので適当に答えたが、左近がそれを許さなかったので再び筆を止める。
 自分が聞く体勢であったときに言えばいいのに、なぜ今言うのだ、と三成は不満を募らせる(これを後にマーフィーの法則と言う)。
 三成はため息をひとつついて、怖いものについて考えた。ほんの少しの間、そこは穏やかな風の音が充満していた。

「物の怪は恐怖が生んだ幻想だ。怖くない。虫だってなにかで潰せばいい」
「じゃあ、殿の怖いものって?」
「そういう、具体的なもので怖いものというのはすぐに思いつかない。が、豊臣家の滅亡、が怖いな」
「やっぱりそうきましたか」
「わかっていたなら聞くな」
「ただの確認ですって」

 また損失が大きくなった、と憤懣やるかたない様子の三成だったが、左近は意に介していないようで、あっけらかんとしたものだった。
 これで左近の質問も終わったのだろう、と三成は再度気を取り直して諸事に没頭しようとしたが、左近がまた口を開いたので眉間にしわが増えただけだった。

「今度はなんだ」
「怖くないものってなんですか?」
「そんなものたくさんありすぎてわからん」
「じゃあ的をしぼりましょう。徳川家康は怖いですか?」
「怖くない」
「やっぱり?」
「うるさいな。俺が何を怖く思おうがお前にはなんの得もないぞ」

 三成にとってはくだらない問答で時間を潰したと思われる。しかし左近はちっとも悪びれずに、くるりと振り返り、薄く笑みを浮かべた。なにを企んでいるのかと三成は一瞬冷や汗をかく。そして自分の言動になにか怪しいものはなかったか瞬時に確認するが、思い当たる節はない。
 また風の音が充満する。三成には心理的な余裕がなく、それは非常に息苦しいもののように思われたが、左近は心理的余裕がたっぷりとあったので心地よいものだった。

「怖いものと怖くないものが一緒だ。矛盾してますよ?」
「一緒ではない……、あ」
「そうなんですよ。豊臣家の滅亡が非常に恐ろしい。豊臣家を滅亡に追い込む予定を持っているのは徳川家康。つまり、徳川家康も怖いものに含まれるべきなんですよ。ですが、殿はその矜持からか徳川家康は怖くないと答える。本音は?」
「滅亡に追い込まれる原因は徳川家康だけではないからな。徳川家康単体は恐ろしくもなんともないが、豊臣家が絡むなら脅威。そうとだけ言っておく」
「そうですか」

 左近は時折、三成の精神的に未熟と思われるところを指摘する。三成は揚げ足をとられたと思い煮え切らない気持ちを抱えることもしばしばだった。それでも、ごく稀に盲点となっていたところに気付かされることがあるのだから無下にはできない。
 だが、今回のどちらかといえばお遊びのようなものだった。

「それで、お前の怖いものは?」
「そうですねえ。殿が殿じゃなくなってしまうことは怖いですねえ」
「ふうん?」
「つまり、殿が義を失うということですよ」
「そうか」

 三成はその左近の言葉に悪い気はしなかった。つまり自らの義を尊んでいることに非常に近いということになるからだ。そして、左近に言われずとも義を失うつもりはなかった。
 いつのまにか体を元の状態に戻した左近は、また足をぷらぷらとさせる。三成はもう顔をしかめなかった。

「で、怖くないものは?」
「殿が義を捨てること」
「は?」
「失うと捨てるは違うんですよ?」
「でも俺が義を失くすということに変わりはないではないか」
「でも違うんですよ」
「意味がわからないな」
「わからなくってもいいんですよ。左近のことなんですから」

 先ほどのお返し、と言わんばかりに左近はそれ以上を語らなかった。








02/05