「三成殿っ」
「ゆき、む、ら?」
驚いた。
俺の心境を一言で表すならばそれに尽きるだろう。なんともありきたりで陳腐な表現だが、いかに俺が驚いているかよくわかることと思う。言葉も出ぬほどの衝撃。
いきなり、上田城で秀忠を足止めすべく篭城していたはずの幸村が北西砦近辺から、ひょこっと現れたのだ。
その直後、幸村の介入に驚いて油断したのか、左近が銃撃されたとの報があった。
そしてその幸村は死地となった関ヶ原中央を突破して、左近を援護しつつ俺のところまでやってきた。
貧血を起こすかと思った。
「ご無事なようでよかったです」
「俺は……、お前、いや、左近は! 無事か!」
せっかく援軍に来てくれたのだが、幸村の背後で忘れられたようによろよろしている左近を見つけ、そちらを優先した。幸村の真偽は後回しだ。
「傷! 傷!」
「殿ー、ひとの上に立つんですから、これしきのことで動揺してはなりませんぞー」
だるいのか、妙に間延びした言葉が左近からもれる。動揺せずにいられるか、これが。
幸村はいるし、左近は大怪我だ。小早川も毛利も裏切り安国寺や紀之介の軍ははさっきから苦戦の報ばかり、たぬきは余裕の姿勢を崩さぬ、小娘は義戦なのに奇襲じみたことをするわ、本多忠勝はやたらめらめら燃えているわ、本陣近くには敵がちらちらやってくるわ大筒は制圧されるわ島津は動かぬしギン千代は我が道を走るばかり!
ええい、なにもかもがうまくいかぬ!
「なにか苛立つことでもあるのですか?」
「すべてだ!」
忌々しいことばかりだ!
義戦なのに! 義戦なのに!
「三成殿、そういうときは手のひらに人という字を三度書いて飲み込むといいらしいですよ」
治療を受けている左近を視界の隅に、この緊迫した戦場に似合わぬ幸村のぼんやりした喋り方が広まった。
……頭が痛い。今は緊張が必要なときなのに、たるんでしまうではないか。
そもそも、人という字を三度書いて飲むなど……、緊張をほぐすためにするものではないのか。そうか。
「……言及は後だ。幸村、忠勝を倒せ」
忠勝は既に宇喜多にまで進軍してきている。このままでは宇喜多が壊滅する。それに、忠勝のまわりには福島正則や加藤清正……、まるで護衛のようにあいつらが取り囲んでいる。俺が行ったところでタコ殴りになるだけだ(それに難易度が高いのだ)。
「わかりました! 真田の戦、とくとご覧あれ!」
そう言うなり、その馬笛で馬を呼び、颯爽と跨った。俺もあの技能がほしいのだが、なかなか体得できぬ。そうだ。俺は口笛も吹けぬ。
「あ、三成殿」
「なんだ」
「これ、渡そうと思っていたのですが忘れていました」
「?」
幸村から小包が手渡される。この場面で渡すからには、なにか戦局を左右するような、重大なものなのだろうか、と不安になる。
少々厳かに包みを開け、中を見る。
「……幸村。これはなんだ」
「櫛です」
「この状況で、なぜ」
「いえ、最後にお会いしたときに渡しそこねたので」
「なぜ櫛を」
「三成殿はいつも寝癖がついているので」
「……」
貧血を通り越して、堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
「空気を読まぬか!」
そう怒鳴ったら、「ごめんなさーい!」と言う叫び声と馬蹄の音が遠のいていった。
天然も度がすぎると腹立たしい。いや、幸村が腹立たしいのではない。けして、そんなことはない。ただ、俺が今、苛立っているだけなのだ。
あんな天然な男でも一度槍を握れば、普段の行動からは予測もできぬような働きをするのだから、人間とはまことわからぬ。
「殿ー、八つ当たりはいかんでしょー」
「左近……。俺の気持ちも少しはわかってくれると思うのだが」
「まア、ね。あの真田殿は……、どういうつもりなんでしょう」
『どういうつもり』とは、つまり、敵か味方か、という問いのことだろうか。
「俺の友だ。現に、西軍として上田城で篭城をしていたではないか」
「ならばなぜここにいる」
「知らぬ。それについての言及は後でと言ってあるから、後で聞き出せばいい」
「……殿は、本当、お友達が大好きなんですねえ」
「茶化すな」
左近の言いたいことは痛いほどわかる(常々言われていたことだからな)。
俺はどうも、一度信じてしまえばとことん、入れ込んでしまうたちらしく、疑う余地などありはしないと頭から決め付ける悪癖があるらしい。
だが幸村は信ずるに足る男である。左近だってそれを知っているから、厳しくは言わない。ただ、あれが『本当の』幸村であるかどうかを疑っているようだ。
「おや、その櫛」
「幸村が」
「へえ。殿、後ろの髪がからまってますよ。左近が梳きましょうか」
「お前も空気が読めぬのか」
そんな大怪我で、ばかやろう、と怒鳴り散らすのをすんでで抑え、俺は櫛を握り締めて、ひたすらに霧の晴れた中央をにらみつけた。
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