「左近、どうしよう」

そう言うなり、とても人前に出るような格好ではない、寝間着姿で殿は駆け込んできた。こんな殿の様子ははじめて見るが、俺は意外にも慌てなかった。
先の大戦を終え、尋常ではない忙しさに忙殺されそうになっていたが、ようやく、落ち着きを取り戻したばかりの矢先のことだ。

「どうされました」
「眠れぬ」
「はあ」
「どういうわけか、眠れぬのだ」
「起きていればいいじゃないですか」

と、軽々しく答えたものの、殿にはいい加減ゆっくり休養を取ってほしいと散々に言ってきていたのは俺だ。
だが、いざ休もうとすると体が言うことを聞かない。たかだかそんなことで俺のところに来るというのも不思議だが、目の下のクマを見るにやはり休んで欲しい。だが眠れないと言う。

「左近が添い寝でもいたしましょうか?」
「いや、なにかいい薬でもないか、と」
「薬なんて気休めですよ」
「ならばどうすればいい」

今まで散々に働いてきた体だ。今さらゆっくり休むことなど適わないつくりになっているのだろう。
今後の仕事に関わるからこそ、殿は今、ゆっくり休みたいらしい。

「横になって、馬を数えたらどうですか」
「馬?」
「ええ、馬が一匹、馬が二匹、と延々に。そのうち単調な作業でうとうとしてくるでしょうよ」
「だめだ、左近。俺はものを数えることに関しては、すっかり目が冴えてしまうのだ」

ああ、そうだ。このひとはものの勘定が得意で、むしろ逆効果だ。それにこのひとの場合、今、城にいる馬の数をすっかり数え、次は別の城の馬を数えて、ひたすらに実在する馬を数え続けるだろう。

「では、僭越ながら左近が子守唄でも」
「俺は子どもではないぞ」
「なら、左近にどうしてほしいんですか」

俺はそういう、不眠に関して専門ではない。おまけにこの殿は、まじないに関してはちっとも信じていないから、そういう思い込ませ療法も通用しない。
むう、と唸りながら、殿は部屋の隅にあぐらをかきはじめた。どうやら居座るつもりらしい。まいったな、と思いはしたが、悪くはないとも同時に思った。

「殿」

ちょいちょい、と手首をかしげさせて殿を呼び寄せる。殿は首をかしげながら俺の傍にやってきた。
ここで、無礼者、と怒り出さないのが殿の不思議なところだ。殿は一度自分の領域にいれてしまえば、こちらが不安になるほど疑うことをしないし、家臣である俺に対してもまるで長らくの友人のように接してくる(そして俺はそこにあぐらをかいている)。

「はい、ごろん」
「ぬおっ」
「眠れないとは言っても、体を休めるくらいはしましょうね」

殿の肩を引っつかんで、布団に横たえさせる。それからしわのついてしまった掛け布団を殿にかけてやって、俺も隣に横たえた。
ああ、考えられないさ。こんな主従、あるわけがない。だがこのひとはそれを作ってしまうのだ。

「わかった。だが、私室に戻るぞ」
「いやいや、殿のことだ。どうせならこの時間を使って次の仕事をやってしまおう、なんてお思いになるかもしれませんしね。左近が夜通し見張っていますよ」
「だがな……」

どうやら殿は、今さら自分の行動がいかに俺の安眠を妨げるか、その軽々しさを自覚したようだ。本当に今さらだがね。
だが、俺のほうもすっかり目が冴えちまった。それに今の言葉に嘘偽りはない。本当に、この殿ならばやりかねない。せっかく休もうっていうのに、結局仕事をしてしまうのだから。勤勉も過ぎると不安の種にしかならないもんだ。

「少し、ここで寝る」
「はーい、おやすみなさいませー」

少し、寂しがりやになってしまったようだ。以前の殿ならば、けして、眠れないからと言ってここまでやってこないだろう。ただ寝返りを打ち続けるだけだ。
だが、先の大戦で裏切りが相次ぎ、すっかりひとというものにたいして不安と、疑念、同時にひとりであるという孤独を妙に背負っている具合がある(それでも、真田殿の援軍により奇跡的に勝利したのだが)。
誰の心にも自分はいない、という恐怖を感じて、そして積極的にひとと触れ合うことができない。だが、信じていたものが壊れたのだ。相反するもうひとつの行動が、今のこれだ。寂しいのだ。
それを知っているから、俺は殿を追い出さない。このひとが目覚めたとき、主の取る行動ではないと軽々しくたしなめることくらいだ。

まぶたを閉じてから、表情は微動だにしない。眠っているのかいないのか、よくわからない。
そういえば、この殿は意外とひとの体温が好きだったな、と思い出す。昔、太閤殿下に頭を撫でてもらったりとか、したんだろう。
だから頭じゃなくて、俺は腹に手を置く。
腹が温かいというものは、意外と落ち着くものだ。それにこのひとは少し、胃腸が弱いふしがある。冷やすよりもいいだろう。
腹に手を置いて、俺はぼんやりとこの殿の寝顔(かもしれない)を眺めていた。









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