ふと眩暈がして、立ちくらみのようにあたりが暗くなり、じわじわと光を取り戻す。疲れているのだろうか。
 すっかり辺りの様子が確認できるほどになったのだが、どうにも少し様子が違う。どこが違うのかと問われると具体的な例を言えるわけではないが、直感的にひとつ挙げてみると、人の気配がまったくなくなっている。まるで先ほどまでいた空間と別物のようにすら感じる。やはり私は、疲れているのだろうか。違う世界みたいだ、なんて。
 きっと年のせいなのだろう。
 徳川の天下になって数年。かつての友(と呼ぶのは少し怖い)三成は関ヶ原に敗れ、今や、天下を狙った極悪人としての評判が定着している。それもこれも、私が背後の伊達を懸念した保身から、挟撃の約定を果たせなかったからだ。幸村は長い間、九度山に謹慎されていたが、最後の豊臣の血を守るべくそこから抜け出し、大阪の陣にて死んだ。
 義を誓い合ったかつての友は死に、私のみがこうして徳川の天下の中、生き永らえている。
 私は少し、死ぬことに恐怖している。
 死んだ先に分かれ道があるとしたら極楽か地獄へ続く道であろう。しかし、万一その分かれ道がなかったら、私は三成と幸村に会うことになるであろう。そのときに私は、どの面を下げていけば良いのか。
 よもや私には義という概念は塵に等しく、ただ日々こうしてお門違いの恐怖を感じ、ただただ懺悔するだけだ。
 それでも、私は、図々しいことにまたふたりに会いたいと、思っている。
 もはや無駄に年月を食い荒らした私の頭には、三成も幸村も薄ぼんやりとした偶像のような形象しかなく、忘れることを恐れている(ふたりを忘れることは、私のかつての義というものを、本当に捨て去ってしまうということになるのではないか、という焦燥感)。
 ふたりに会って、なにをするとも考えていない。
 会ったとしても、口を開けば言い訳じみたことをしてしまいそうで、怖い。そうだ、怖いのだ。
 拒絶されることも恐怖、言い訳をすることも恐怖、冷めた目で見られることも恐怖、会話すらしたくないと思われることも恐怖、見られることも恐怖、存在を感じられることすら恐怖、触れられることも恐怖、享受されることも甘受されることも恐怖、許されることも恐怖。
 全てが恐怖に支配されている。
 私だけでも、私だけでも挟撃に向かえば良かった(単なる無謀だとしても)。
 その思念に囚われ続けて、何年も経った。そんなことばかり考えているせいか、私は無口になってしまった。
 最初の頃は、涙も少しは流した。しかし、どれほど些細なことでも、そうなるきっかけになったのが私だと考えるようになってから、深く悲しむこともなくなった。それは底が見えないほどの偽善にしかならない。

 しかし、本当にひとの気配が無い。
 先ほどまで小さな話し声や布の擦れる音がささやかに届いていたというのに、本当に無の世界だ(一気に耳が遠くなったとでもいうのだろうか。ますます年を取った)。

「わっ、兼続殿、お年を召されましたねー」
「ふ……、やはり兼続も人の子だったのか。ギーギーうるさいから人外かと思っていたのに」

 胸の奥が熱くただれる感覚が突き抜ける。
 もはや耳の奥にすら聞こえなくなっていた懐かしき声が再現する。走馬灯といって、人は死ぬ直前に、過去のことを思い出すと聞く。もしかしたらこの声は走馬灯なのだろうか。しかし私の記憶の中にはこのような会話はなかった。
 しかし、ならば私はどうやってこれを説明すればよいのだろうか。かつての友が、生前と変わらぬ姿で私の目の前に現れたのだ。どうやって、説明すればいい。どんな顔をすればいい。どんな言葉を紡げばいい。どんな目でふたりを見ればいい。誰か答えを知っているのなら、ご教授願いたいものだ。

「すっとぼけた顔だな。久しぶりに見た俺の顔が美しすぎて対処に困っているのか?」
「ははっ、三成殿、冗談きっついですよ。ただいきなりすぎて驚いているだけですって」
「冗談きついって……」

 ふたりは私の顔を覗き込みながら、昔と変わらない調子で会話を続けている。
これは私の作り出した都合のいい夢、幻覚だ。現れるはずがない。ふたりは死んだのだ。何年も前に。

「おい兼続、いい加減なにか喋らぬか」
「そうですよ、せっかく来たんですし、お話しましょう」

 私に、なにを喋れというのだ。私の幻覚は。贖罪の文字を繋げて少しでも自己修復をしようとでもしているのか。そんなこと、とうの昔にやり尽くしてしまった。

「みつなり……?」
「なんだ。俺のことを忘れたのか?」
「……ゆきむら?」
「お久しぶりです」

 話しかけると、返事がある。
 今まで、ふたりが夢の中に出てきたことがあっても、一度たりとも反応が返ってくることはなかった。これは夢ではない、そう思っていいのだろうか。なにを喋ればいい、なにを、なにを……。
 体が震えて、なにも考えられない。口は硬直し、手を伸ばそうと思ってもまるで像のように動かない。

「……ひ、さしぶり……だ」
「そうだぞ。あー、何年経ったか生憎覚えていないが」
「そんなことよりもっ、兼続殿聞いてください!」
「な、なんだ」

 どんな責め苦を投げつけられようとも、私は当然のこととして享受する覚悟はできていたはずだった。しかし、いざ声を荒げられると、何を言われるかもわからない恐怖も上乗せされて、思ったよりも声が引きつってしまった。

「三成殿ったらこの間、私が寝ているときに顔に落書きしてきたんですよー!」
「……はあ?」

 予想外の言葉に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。だがそうなってしまうのも少し、しかたないような気がする。あまりに次元が低いというか。

「あんまり気持ちよさそうに眠っているのでな、どれくらい書いたら起きるか実験したのだ」
「ひどいですよね!」
「あ、ああ……。不意打ちは卑怯だぞ」
「いいではないか。誰が見るでもなし」
「でもこれには続きがあって、仕返しに三成殿の顔に落書きしようと思って夜、こっそり忍び込んだんですよ。そうしたら、隣に島殿が一緒になって寝てるんですよ。キャー、破廉恥!……と思ったのですが、まあ寝ているだけですしあまり気にせずに三成殿の顔に筆を近づけたんです。そーしたらなんと、島殿が起き上がってものすごい形相で睨んできたんですよ! 目が光ってて『殿の綺麗なお顔を傷物にするお気ですか』って。寿命が縮んだかと思いましたよほんとに」
「寿命もなにもないんだがな」
「それはそうなんですけどね」

 幸村が、なぜかよく喋ることに違和感を感じた。やはりこれは夢や幻覚にすぎないのだろうか。いや、夢や幻覚ならば、私の記憶に最も忠実な規則的(ステロタイプ)な『幸村』がいるはずだ。なぜ目の前にいる幸村は不規則なのだ。
 いや……、この疑問すら私がいかに現実であるかというように感じさせるための都合のいい道なのかもしれない。

「あ、なんだかたくさん話してしまってすみません……。久しぶりにあったので、たくさん言いたいことがあったので……」
「真っ先に言うことが、顔の落書きというのもおかしな話だがな」
「……私も、ふたりにはたくさん、話したいことがあるよ。とても、語りつくせないようなことが、たくさん」

 謝る、という言葉にした途端ひどく安っぽくなる。ただひたすらに、懺悔の言葉を吐き続けることしかできない。私にはそれしかないのだ。

「言っておくがな、兼続。別に何年も前の挟撃だとかなんだとかの話はいらんぞ。あれはお前が来ようと来まいと変わらない結果になっていたのだからな。俺はそんなしみったれた話なんぞをしにきたわけではないからな」
「そうですよ。何年も前に終わったことをいまさら掘り返したところで、私も三成殿も考え飽きてしまったのですから」

「黙れ! 消えろ、消えてしまえ! お前たちが……、三成と幸村が本当にそう言うとでも思っているのか! とんだ虚像だ! 消えろ、消えろ、消えろ!」

 ふたりは表情も変わらないまま、揺れ、薄らいで、消えてしまった。
 そうだ、これも結局、私の作り出した、都合の良い幻像でしかないのだ。いつも私は、これが現実だと信じようとして、最後には掻き消してしまう。
 ばかばかしいことばかりしている。
 何も産まない。
 私は、孤独ではない。

 大丈夫だ、私は、まだ大丈夫だ。











09/25