ガンメタルの獣が、金切り声をあげて口を開けていた。
調律の狂ったバイオリンがクインテットを奏ではじめる。
黄色い牙をむいた獣は、たちの悪い虫のようにてらてらしていた。

俺はあほうのように、立ち尽くした。




「よかったですよ、たいしたことなくって」
「ああ、よかったな」

左近の心底芯のない、しまらない顔が、枕に向けられているような、他人事のような感覚が抜けきらない。
いったいなんのことだか、ちっとも理解しない。さっきも説明されたのだが。まるで夢物語だ。そんなことが実際に俺の身に起きたことなど、俺にとってはブラウン管の向こうの世界くらいにしか思えない。

「よかったな、って、えらく他人事ですね」

その言葉すら、誰に対してのものかあいまいだった。




ようやくそれが、ごく身近に起こった、ささいな事件であったことに気付いたのは退院してからのことだった。
まるでそこらに、獰猛な獣を野放しにしているような恐怖が胸を衝く。
白いガードレールが死刑執行台のようにうなり、体を鷲づかみにする。
警告の汗がしたたり、体中の毛が逆立った。
俺は、街中をひとりで歩くことをまるで恐怖していたのだ。
ガードレールに遮られていようと、道路をゆくその大きな体が通り過ぎるたびに足が止まる。
平静を保とうとするが、内部は荒れ狂わんとしていて、その奇妙な人格を殺すことにひどく労力をつかった。
たかだか一度の経験でそこまで臆する俺を、俺は嫌悪した。
そのうち、自分の家から出ることも億劫になった。
外を歩けば無様な自分の姿を見なくてはならない。


「散歩ですよ。ほら、引きこもってるらしいじゃないですか」

腕を引かれた。
触らないでほしいと思う。
まるでこどものようにいちいち怯えることを顕著に表す手が、憎い。知られることがとてつもなく恥のように思えた。
夜中で、無音だというのに、俺は多分、恐怖している。弱い人間だ、と思った。

「よっ」

ガードレールを飛び越えた左近は、道路に飛び出した。
唐突に離された、汗ばんだ手を見る。
ばかばかしい。
少し安堵していた自分に気がついたが、黙っていた。

「ほら、車なんて来ませんよ」
「道路は人間が歩くものじゃない」
「今、車はいないんですからひとが歩いても問題ないんです」

もう怪我も完治しているし、なんの後遺症もない。それほどささいなものだったはずなのに、いつのまにか俺のなかでは重大な事件になっていて、俺はまだ足踏みをしたままだ。
ひとはもろい。
ひとりでは確かに、不十分だ。
だが、もうひとりでもひとがいれば、多少はもろさを防げる。

「そうか」

俺はガードレールを飛び越えて、また左近に手を繋がせた。
車は多分、車だった。










07/22