Disce gaudere.






 彼はほんの人差し、親指先でワイングラスの足を持ち掴み中指を添えて、正面に座っている俺の方向にグラスの中身が零れ出すギリギリ斜めまで傾けた。試し遊んでいるかのような危うげな指使いに、紅い液体がグラスの中でユラユラと小波を立てている。今度は、グラスを額の高さまで持ち上げて乾杯のような仕草だけ示す。料理も口直しに差し掛かり。
 彼はグラスをその位置に保ったまま中の液体へ、仰ぎ見る形で視線を注いでいる。二人の頭上にある照明のアンティークランプが、光量を落とされた光でグラスの足を持っている彼の指に液体の影を掛けた。
 照明を落としてクラシカルな雰囲気に努めた店内では、なだらかなピアノの演奏の2巡目が始まり。選曲は俺にも耳馴染みのあるものだったが、題名をどうにも思い出せない。俺もだいぶキたようだ。しかも、先程からの彼の行為に気分を害されるどころか、こんな場所でなくとも普段はお目にかかれないだろう彼の態度に少しばかり、自身の内で羨望と彼の人ぶりに興味が沸いている。すると、今までグラスのみを見つめていた彼が真摯な面持ちで視線を正面に持ち上げたため、一瞬こちらの内心が読まれたのかと、しかし顔には平常心を浮かべて彼を見返せば。
「厭きたな」
「……、は」
「変わり映えしない」
 彼はそう呟いた。そうしてグラスごと持ち上げていた方の手を降ろす。ようやく彼の手がグラスをテーブルに乗せると、反動が伝わった紅い液体がまたユラユラと大仰に揺れ。液体の中で屈折したランプの光が、グラスの足元を照らしていた。
「最初は必ず食前酒から飲み、一年中代わり映えのしない"季節"料理を食べ、努めて保たせたマンネリ雰囲気の中で、ディナーと機械のサービスを受ける…、これでは酔わせる酒にも酔えやしない。…厭きがきた」
「それはまた、」
 くるりくるりと手首ごとグラスを回して液体を揺らす彼が、
「店が悪いと言っている訳では無い。左近も分かるだろう」
と、静かに言うので、俺も心持ち声を窄めて返す。
「ええ、確かに毎日これではね、感覚が麻痺しちまいますなあ。でも分かっていながら何故毎日?まあ、俺もこうして預からせて頂いてる身ですが」
 俺の言葉を聞きながらワインに口を付けていた彼、三成さんが口からグラスを放す。そしてポツリと話しだした。
「他の方法を試したことがない」
「試す?」
「ああ。食事をするなら星のあるリストランテ、そう決まっていると教わっていた」
「はあ」
 つまり、経験が無い、ということか。この人ならそう言うかもしれない、と想定してはいたものの、直接本人の口からさらりとたやすく聞いてしまうと何故か、問い掛けたこっちの口が塞げない気分になった。確かに、育ちの良さ(育ての親の家柄が良いと聞いた)で幼少からこんな高価な場所が普通になったのだろうが、安くても十分に美味い店も沢山あるよな。そう俺が考えに耽っていると、かの有名なガイドブックもいいな、と三成さんからの追い討ち。
 こうした場所にまるっきり縁のない、平凡な一般中流家庭に生まれ育った俺も、今でこそこうしてお相伴するようになってはいるが、実のところ、お得意先との会食やらで仕事上必要に迫られてマナーを会得しただけだ。平素は安くていい店の方にお世話になることの方が断然に多いし、そこだと、楽に食べて呑むことができる。
「だが、呑む行為自体が嫌というのでは無いぞ」
「それじゃあ、家で呑み直しません?」
 気がつけばついと、俺は何気なく話していた。そうだ、この人に経験してもらったら良いのではないか?こうした場所以外でも呑めるということを。言葉にすると大袈裟な感じがするが、つまり、楽しく呑み、素直に酔うことができる、と。
「家とは誰の家だ」
 やや困惑した表情の三成さんが言い返す。
「三成さんが良ければ、俺の家でどうでしょうかね」
「なら良い」
「決まりですね」
 返事は早かった。


「どうぞ‥、何もありませんが」
「う、うむ」
 またあれからが大変だった。自分の家に帰る、或いは自宅に人一人を案内することに、これだけの気力と体力を要することになろうとは到底考え及ばなかった。だが、これは先刻に飲んでいたワインと歳のせいにしておこうと思う。
他人の部屋が物珍しく感じられるのか、三成さんは靴を脱いだ後、居間に立ち尽くしたまま中を見回している。先に乗った電車とバスの中で驚愕の表情を見せた彼のことだ、俺には当たり前の風景に状況でも、彼には非常識にも似た相違があるに違いない。
 2DKの、一人で暮らすには充分な部屋で、備え付けクローゼット以外の家具はタンスにテーブルにコタツ…と、あまり置いていない。
「えと、あんまり見るものもないんですが」
「…あ、そうだな」
「……。立ってると寒いでしょ?コタツ、電源入れましたから、入っていて下さい」
「コタツ…」
 もしや、コタツの用法を説明するべきなのか…、と気になったが、三成さんのプライドに障りそうなので言うのを止め、事に任せる。
 取りあえず、帰り途中に寄ったスーパーで買った缶ビールやカクテル、缶チューハイ、サラミを買い物袋から取り出してコタツの上に並べ、ツマミ用のチーズや野菜、缶詰は台所へ。包丁とまな板を出してモッツアレラチーズを切り分け、バジルとトマトのスライスをチーズで挟む。ブルーチーズもスライスして、二種類を皿に盛る。チーズの横に蓋を外したオイルサーディンの缶詰を乗せ、サラダ菜とレタスを洗って付け合わせた。
 ふと、居間を見れば、三成さんがコタツの布団を捲り、中をしげしげと見ている。何をしているんだろうか?
 次のツマミに鶏の砂肝を茹で、火が通った頃に笊に空け、食べやすい大きさに切る。フライパンに入れて軽く炒め、塩胡椒、料理酒、味醂醤油で甘辛めに味を調えたら出来上がり。
「ほう、料理をするのか」
 三成さんがいつの間にか俺の後ろから、フライパンの中を覗き込んでいた。
「する、と言っても簡単なものだけですよ」
「だが美味ければ、それだけでも結構なことだ」
「これ、口に合いますかね?」
「それは食ってみないことには判らんな」
 そう言いながら、テーブルに準備しておいた皿を取って寄越してくれたので、それに炒め物を移して、チーズを盛った皿と一緒に居間へ持っていってもらう。俺は棚からグラスと冷蔵庫から氷を取って、それを居間のコタツへ。
今度の三成さんはコタツに入って待っていた。胡座で落ち着いたようだ。
「三成さんはどれを飲みますか?」
「ビール」
「はい、どうぞ」
 グラスにビールを注いで渡してやる。受け取った三成さんは一口飲み、ブルーチーズを摘んだ。
「うわ゛」
 ―どうやら、ブルーチーズは三成さんの口に合わなかったよう、ひたすらビールを口に流し込んでいる。俺が摘んでいると、三成さんに苦虫を噛み潰した様な顔で睨まれた。この味、俺は平気なんですがね。
 そうして呑みながら、お互い仕事や情勢の話を交わした。
「三成さんの出した企画、通ったそうですね」
「お蔭様だな、左近が提案してくれた方法が上手くいっただけだ」
「お互い様ですよ、あれは結構時間が掛かる、難しいところでしたもんね」
「ということは、一緒の担当になってからもうどれ位だ?」
「えーと、一年とちょっと位ですかね」
 三成さんが砂肝に箸を伸ばすので、取り皿に取ってやる。

「出来る同僚がいると助かる」
「これ位で大袈裟な」
「…、美味いと思うぞ」
「え?」
「砂肝、妙な歯触りだが美味い」
 コリコリコリ。今度は、軽快な音を立てて食べてくれた。
「どうもありがとうございます」
「うむ、こんな飲み方も良いな」
「お、本当ですか」
「コタツも暖かくて気持ちが良い。素直に酔える」
「それは良かった」
 ホッと俺が息を吐(つ)くと、三成さんの目が笑った。この部屋にも慣れてきたようだ。
「話をしながら、というのも互いに知り合う…」


 不意にそこで会話が途切れたので、三成さんを見てみるとスッカリ眠ってしまっていた。ワイン一本と缶ビール一本半で許容一杯だったのか、頭がカクンと、気持ち良さそうに船を漕ぐ。
 暫く、様子を窺って起こそうかと迷ったが、明日が休日だったことを思い出した為、無理に起こすのも悪いかと、彼をコタツで寝かしておくことに。後できちんと布団を引いて、そこに移動してもらおう。

 自身としては、彼が楽しく酔えたのならまあいいか、と最後にオイルサーディンをサラダ菜で巻いたものを食べてから、後片付けに入る。
 新しい皿に移した食べ残しにラップをかけたところで、丁度、時刻が24時を指した。









(08'0105)










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shina
『霞狩』塵芥朧さまより賜りました!
一周年おめでとう!ってことでまたまたです。本当、もらってばっかりで返すことを知らない赤子のような私で申し訳ないです。
今回、『食べるという行為について』みたいなリクエストをさせていただきました。
小説の書き方がどうとかいう本に「日本の小説には不自然なほど食べるという行為について描写されない。食べるという行為を書くというのは小説にとってとても大事なこと」といった具合の独特な見解が鮮やかに私の胸に落ちたため、変なリクとわかっていながらもお願いしてみました。笑顔
自分じゃとてもじゃないですが食については描けないと思ったのでOTL
貪るような甘い倦怠感、下流の小川の流れに存在する中流の石。そんなインスピレーションがやっぱりしっくりするとても素敵なお話を本当にありがとうございます……!
砂肝、食べたことがないのでいったいどんな味がするのかさっぱりですがまずくはない……のかな!
では、本当にありがとうございましたー!

01/09