思いがけない不幸な出来事  --------------------------------------


 唐突だが、と前置きはあったものの、やはり面食らわぬ訳にはいかなかった。
 「蔵書の整理をしようと思う」
 「……はあ」
 それは別段構いはしないが、本当に前後の脈絡というものがない。
 曖昧に頷くだけに留まった。その反応の薄さを気にするでもなく、特にこちらを顧みることもなく、三成はすっと音もなく立ち上がる。あとは、時間が惜しいとばかりにさっさと行ってしまった。
 左近は故意に出遅れた。鈍い動きで腰を上げながら、その裏で目まぐるしく思考を働かせている。
 昨日一昨日と、何やら三成は室に閉じ篭っている。ひとつの事案を抱えているようだが、その仔細は一の家臣である自分にすら打ち明けられぬまま今日に至っている。
 傍目に窺える様子からして、その用が済んだ、という訳でもなさそうだった。まだ何がしかの屈託が残っているようで、今ひとつ冴えない顔色をしている。
 そろそろ、どういった問題なのか、訊ねてみてもいい頃合ではなかろうか。
 矜持が高くまた慧敏な彼は大概のことを自力でこなし、生半可なことでは他人の手を借りようとしない。ゆえに、遠目から見ても先行きが悪そうだと分かっていながら、そこへ助け舟を送り出す、その時機を見極めるのが非常に難しいのである。
 あの頑なに弱味を見せたがらない彼から、いかにして情報を引き出すか。
 (こういうことにかけては、妙に意固地になるからなあ)
 顎をさすりながら、さらに左近は思案を重ねる。と、そこへ素っ頓狂な悲鳴と軽い震動が、遠く長く割り込んできた。
 三成だ。刹那で断じて、考える余地もなく左近は走り出した。
 「どうされました!」
 「なっ、何でも、ない!」
 反射的に返ってきた言葉など当てになるものか。勢いよく開け放った襖の向こうは、もうもうと土埃が舞い上がって薄く煙っている。三成は、ばらけた書物やらひらひら遊ぶ書状やらに囲まれて、咳き込みながら蹲っていた。傍らには、踏み台がころりと敢えなく横倒しになっているのが目に入り、左近は俄かに全身の血の気が足元まで下がる思いがした。
 「殿!」
 我ながら面白いほどにうろたえた。駆け寄ると、見上げた三成はびくっと大きく肩を揺らして僅かに身を退いたので、恐らく自分は今とんでもない形相で居るのだろう、と思う。だがしかしたかがそんなことは、どうだっていい問題である。
 ざっとひと通り全身を確認する。そこかしこと薄汚れ多少掠り傷を負ってはいるようだが、さほど深刻な怪我は見当たらない。が、ちょうど視線が行き当たった左の足首を、三成はさっと庇うように手で押さえるので、何処に一番不調を覚えているかなど一目瞭然だった。
 「そこ、挫いたんですか」
 問いかけると今度は決まり悪げに目を逸らし、への字口になった。この期に及んでもまだ必死に隠そうとするその手を、やっとのことで引き剥がした。予想通りと言おうかお約束と言おうか、関節の部分を軽く痛めたようで、じわじわと染まるようにそこは赤く腫れつつある。
 「他に、痛むところはありませんか?」
 俯くばかりで答えない。が、一瞥したところ取り分けて異状も見つからないのだから、他は大したことがないのだろう。ひとまずそんな辺りでこの場は落着するとして、とりあえずいつまでもこんな薄汚い場所に、このまま彼を放置しておく訳にも行くまい。
 「失礼しますよ」
 一応、ひとつ断りを入れた。むくれてこっちを見ようともしない、三成の背と膝裏にそれぞれ腕を回した。そこに来てようやく左近が何をしようとしているのか、遅ればせながら気配を察したらしいが、
 「    なっ」
 「どっこいしょ」
 と、抱え上げてしまえば、今さらになって大わらわに暴れようが騒ごうが、もうこっちのものである。
 「はいはいちょっとばかりおとなしくしていてくださいよ」
 「ききっ貴様、降ろさんか!」
 「痛ッ!ちょ、髪、引っ張らないで!」
 抜けたらどうする!
 生え際に危機感を覚えつつ、つま先で器用に襖を開けた。諦め悪い三成はまだ腕の中でじたばたと、果敢にも抵抗を試みている。しきりに身をよじるわその挙句にまた髪は引っ張るわ顔は引っ掻くわ、まったく自分は、何処の荒くれた野良猫を拾ってきたというのだ。
 「あのね殿、いい加減にしないと落としますよ!」
 一喝すると、ぴたりと止んだ。やれやれ、と左近は肩を竦めた。
 「そうそう、いい子にね」
 余計なひと言が思わず零れた。一拍の間も置かず飛んできた三成の平手を甘んじて受け、左近はとかく彼の居室へと先を急いだ。




--------------------------------------  面倒くさいことばっかりだけど


 整理どころか大いに散らかしてしまった部屋の片付けなんぞは、とりあえず後回しでも構わない。
 途中、傍を通り掛かった小姓は、この奇妙な主従を一目見るなり顔を青くして、幾つか用を言い付けると矢弾のごとく飛び出していった。あの慌てぶりに何がしか忘れやしないだろうか、と少し不安になったのだが、何はともあれ今は三成の手当ての方が最優先事項である。
 壊れ物を扱うように、そろそろと座布団の上に降ろした。当の三成はじっと俯いて物も言わず、いかにも悄気た風で居る。さっきまでは毛を逆立てた猫とも思しきやかましさで暴れていたのに、運ばれている間にその怒りもあらかた消え失せてしまったのか。そして残ったのは一抹の後悔とでも言うのか、僅かながらもその頬には、反省の色が浮かびつつあった。
 普段居丈高に振る舞う人が、かくも項垂れるその様とは、何とも憐れなものである。だが今日は絆されまい、と腹を据えた。 ここで手心を加えて許してしまえば、後のち言い聞かせておきたい云々に、色いろと差し支える。
 左近は努めて無表情を装い、三成の痛めた足首を取り、丁寧にその具合を看取り始める。
 つ、と僅かに角度を変えて動かすと、おとなしくしていた向かいから小さなうめき声が聞こえた。骨に異常があるようでもなく、捻挫の程度もそう酷くはないが、この様子ではちょっと歩くのにもいちいち手間が掛かりそうだ。
 「ま、大した怪我でもなさそうで、ひと安心ですよ」
 ひとまず、大事には至らなかった。ほっと安堵に息を落とすと、軽い軋みを立てて襖が開いた。息を急いて少年が姿を現し、頼んでおいた用意を次つぎと手渡してくれた。中身を改めてみるに、これといった忘れ物はない。
 「急に捕まえて、すまなかったな」
 「いえ、あの、殿様は」
 「ああ、別にどうってことはない。ねえ、殿」
 そわそわと心配げな少年を気遣い、安心させようと朗らかな調子で同意を求めたのだが、返事はおろか首肯ひとつ寄越さずに三成は押し黙るばかりだ。
 これでは却って逆効果である。特に意味のない意味ありげな沈黙に、少年はどんどん不安を募らせてゆくようだった。
 「本当だって。ちょーっと足を踏み外して、そのまんまころっと、痛ッ」
 その萎れぶりを見かねて少しばかり言い足すと、今度は当人から抗議がてら軽く膝を蹴られてしまった。自分の失態を周囲にはひた隠しにしておきたい、その気持ちも分からないでもない。が、左近にしてみれば不本意も甚だしくそして痛い。
 恨めしく見遣ると、斜に目を落とす三成のその口先もまた、不本意そうに尖っている。これは、あまり宜しくない兆候だ。
 「……まあ、とにかく、大丈夫だ」
 おざなりな感は否めない。それでも、この場を占める微妙な空気を察したのだろう、少年は素直に頭を下げて出て行った。こちらを気にしながら遠ざかっていくその幼い背に、幾ばくかは残っている良心も咎めるが、今さら呼び止めて取り繕ったところで、何がどうなるという訳でもない。
 そして振り返ればそこには今ひとり、扱いの難しい大きな子どもが居るのもまたひとつの事実であった。
 目が合ったのだが、早々と逸らされてしまった。あとは、所在無く座布団の解れを弄ったり、無事な方の足指をわきわきと動かしてみたりと、手元の無沙汰を紛らわせるのに忙しい。
 (ああ、なんて面倒くさい)
 何でもないような素振りでその実、こちらの動向をいちいち窺っているのが、嫌というほどよく分かる。
 (本当に手の掛かるお殿様だ)
     そしてそんな彼にいちいち振り回されて、一喜一憂と動じてしまう自分もまた、どうしようもなく始末が悪い。
 「さて、それでは始めましょうか」
 わざとらしいほど大きな声で呼び掛け、どっかりと三成の真向かいに腰を落ち着けた。ともすれば落ちがちな気持ちを引き立てるべくそうしたのだが、しぶしぶと上がるその気難しい顔を目の当たりにしてみれば、つい先まで胸中に漂っていた拙い嫌気が瞬きの内に霧消してしまうのだから、人の心とは実に不可解な構造を持っているものだ、としみじみ思わずには居られない。
 理屈はどうあれ、左近は己の手軽さを顧みて、おのずとくたびれた笑みを浮かべるのみである。





でこピンしたい、そのおでこ  --------------------------------------


 物慣れた手つきできっちりと、真白い晒しが隙間なく足首に巻かれてゆくのを、じっと見るでもなくして見ている。
 「殿はしっかりしているようで、結構抜けたところがありますからなあ。今回はこの程度で済んだからよかったようなものの、一歩間違えれば大怪我ですよ。ただの捻挫で、本当によかった。仮にも一国一城の主なんだから、もう少し我が身を厭うてくださらないと。それに、前々から思ってたんですけどね、あなたは何かひとつのことに集中すると、他をまったく顧みなくなる傾向がおありだ。多少ならともかく、殿の場合はちょっと人より度が過ぎてますよ。もう少し周りにも気を遣ってください、危なっかしくてこっちも気が気じゃない。それから、この際ついでに言わせて貰いますがね、殿、ここしばらくは真面に休んでおられないでしょう。あ、嘘を吐いても左近にはすべてお見通しですぞ、目や顔色は口ほどどころかそれ以上に、有りのままの事実を物語っておりますからな。まったく、あなたという人は、出来ることは全部自分でやろうとするから、朝から晩まで働き詰めで慢性的にお疲れ気味だし、もっと酷い時だと寝ることや食うことまで省略しちまう。仕事が出来る才器者、というのも時と場合によっては考え物ですな。人間という生き物はね、日々の営みが少しでも不規則になると、その分何処かしらと調子を持ち崩すもんなんです。例えば今日みたいに、あんな低い台から足を踏み外したり、とかね。    って、殿」
 とうとうと流れるように続いていた低音の羅列が、ふっと途切れてしまった。何事か、と自分の足元にかしずく態で居る左近を見遣ると、いつの間にか左近も顔を上げ、こちらをじっと窺っている。その目元は、長々と続く小言の割りに柔らかく緩んでいた。
 手当てはあらかた済んだようだった。使い終えた晒しの余りをこれまた丁寧に巻き取り、左近は呆れ顔に苦笑を交えて溜息をひとつ落とした。
 「ちゃんと、聞いてます?」
 聞いている。だが、一時に数多の事柄を言われて理解が追いつかず、今ひとつ要領を得ずに居るだけだ。
 と、三成は皆まで言うのがひどく億劫に感じられて、ぼやけた思考の内にふと浮かび上がったひと言で、この行きつ戻りつとなかなか進められない事態を済ませようと試みた。
 「……善処、する」
 「ああ、やっぱり聞いちゃいない」
 打てば響くような早さで返ってきた。怠惰にも、自分が手渡した言葉はきちんと真実を伝え切れず、うやむやの内に何方となく散ってしまったらしい。
 形にした言の葉の、なんと儚く報われない結末だろう。
 空々しい物思いである。我ながらその虚しさに、むっと眉根を寄せると、
 「ほら、またそうやってしわ寄せて、跡が残ったらどうします」
 などと、わざわざそこを指差してまでそんなことを言うが、それを言うなら左近の眉間にだってしわが寄っている。
 人のことならよく気がつくが、存外自分のこととなると気がつかない、というのが世の人の常である。
 人のふり見て我がふり直せよ。そう言ってやろうかと思ったが、すぐに止めた。彼の心中を慮ってのことではなく、はたまた我が身の置かれている状況を鑑みてのことではなく、ただ単純に面倒くさい、そんな理由から三成はおとなしく口を噤むことにした。
 何だかもう色いろなことが面倒に思えてきた。どんなに引き篭もっても片付かない仕事も、不意に思い立って始めようとした蔵書の整理も、その結果挫いてしまった左の足首も、いつもながら懇々と聞かされる左近の説教も、もう何もかもが、ことごとく。
     それもこれもすべて、おまえの所為なのだ、おまえの。
 立てた右膝の上に顎を乗せ、ややもすると閉じそうになる意識をそのぎりぎりの間際で保っている。人が話をしている最中に、眠いからと言って勝手に眠るのはよくない、という変に律義めいた行儀のよさで、どうにか持ち堪えているのだった。
 そのため、どうしても目つきが恐ろしく険しくなる。その目の焦点が集中して行き着く一点とは、ただひとつ。
 「そもそも、どうしていきなり蔵書の整理だなんて、思いついたんです。仕事に行き詰っているというのなら、左近にも何か手伝わせてくださいよ。そのためにあなたにお仕えしているんですから、こういう時にこそきちんと使って頂かなければ、左近の頂戴している二万石も宝の持ち腐れってもんですよ。そりゃあね、殿に比べれば色いろと能力的に劣りますがね、ま、それなりにはお役に立てると思うんですよ、    
 すらすらと淀みなく物を言う左近の、その滑らかく見える額を、思うさま、指で弾いてやりたい。
 (……と、そう思うのは、やはり不義かな)
 うつらうつら、と瞬きに限界が見えてきた。眠りの淵へと、人知れず舟を漕ぎ出しながら、三成はそんなことを考えていた。




--------------------------------------  とてもフクザツでトクベツな存在


 くどくどと、日頃気掛かりだった懸念を思いつくままに並べ立てていたが、それにもそろそろ終わりが見えてきた。
 「    と、いう訳ですから、これに懲りたら少しは……、……殿?」
 呼びかけると、うん、と彼はひとつ頷いたかに見えた。だがどうも様子が面妖しい、と気付いてよくよく見てみれば、事実はまるで違った。
 三成はいつの間にやら、立てた膝の上に顔を伏せて居眠っている。
 どうやら説教に熱が入り過ぎて、彼の現状をきちんと把握出来ていなかったようだ。とはいえ、あまりにも唐突で、なんと無防備な。
 「……マジでか」
 器用だな。そう思った瞬間を見澄ましたか、一際大きな揺らぎが彼を襲った。考えるよりも先に身体が動き、畳に落ちる寸前でどうにか受け止めた。危ういところだった、と密かに胸を撫で下ろし、左近は自分の肩に項垂れたまま安んじている三成を覗き込む。
 このままでは息が苦しかろう。そっと横抱きに体勢を入れ替えるが、三成の眠りは深い。僅かに身じろぎを見せただけで、またおとなしくなった。
 額に無造作に流れて掛かる前髪を、左近は何気ない仕草で払い除ける。露わになったその穏やかな寝顔を、何とはなしに見つめてみた。
 長い睫毛の色濃い影が、落ちる頬は白い。切れ長の目の下には薄らと隈がある。そう酷くはない兆しだが、やはり無理をしている。そう見て取り、おのずと嘆息が落ちてゆくのを左近は留めることが出来ない。
 それは既に見慣れた顔容ではあったが、その都度左近の心にはひとつの翳りが差す。
 規則正しく寝息を刻む、その形良い口唇を指先で撫でた。そこから、音を成して紡がれるあの言葉は、果たして真実彼の心から生まれてくるものなのだろうか。時どき、そんな詮無い物思いに、駆られることがある。
 「殿は、存外嘘吐きでいらっしゃる」
     『頼りにしている』、と口先では言いながら、この様はいったいどういう訳なのか。
 独り言は遣る瀬無く零れて、胸の辺りからすうっと冷ややかな感触で通り抜けていく。それもいつものことで、我が事ながら進歩のないことだ、と自嘲の笑みが口の端を象った。
 自分に出来ることがあるなら、多少は任せて欲しいし、そこに苦労があるなら分かち合いたいと思う。それは、家臣としての本分を充に果たすというだけのことではなく、ひとりの人間として彼を支えてやりたい、という意味合いまでも含めている。
 だがそれもすべては、自分の中で先走る私情が益体もなく彼に執しようとする、ただそれだけに留まるのだろう。
 (ま、しかしあれだ)
 感傷の過ぎた思惟は、たちどころに現実へと回帰した。こうした意識の切り換えは、割りと得手な方ではある。
 さて、眠りこけている三成をいかに処すべきか。人を呼んで床の用意をさせるのも手間が掛かるし、それに何より騒々しい。左近はしばしの間考えあぐねて、それから間近にある座布団を枕の代わりとして、その場にそっと三成を横たえた。
 今の内に少しでも休息を得られるのなら、このままそっとしておく方がいい。
 季節柄、身体を冷やさぬようにとあっちこっちと探し回ったが、ろくなものが見つからなかった。仕方がないので、暖を取るにしては少々心許ないが自分の着ている羽織を脱ぎ、それで三成を包み込むようにして覆った。
 (必要とされていようがいまいが、俺は構わないのだがな)
 これから先の人生はこの人のために使うのだ、と心に決めたのだから、最後までその覚悟を放り出すような真似はけしてするまい。
 無邪気な態で眠る三成の頭をゆるりとひとつ撫で、それを限りと左近は物音を忍ばせながら立ち上がった。





上手く言えない、気持ちの代わりに  --------------------------------------


 お前は単純でいいな、とそう何気なく言ったのが事の始まりだった。
 『義だの愛だの、とそのふたつでこの世の理がすべて説けるのなら、生きてゆくのにそう苦労などしないだろう』
 『ふっ、三成らしい言葉だ。しかしな、世に数多ある事象というものが途中如何様に紆余曲折を経たとしても、最終的に辿り着くのは義と愛に他ならないのだぞ』
 突けばすぐにもボロが出るような論理だが、その時の三成には反駁するだけの気概がなかった。所詮は机上の空論に過ぎず、ひいては互いに気を許した者同士が交わす、他愛のない言葉遊びのようなものだ。
 『信じられんな』
 『では、試してみるか?』
 『どうやって』
 これは議論の好機、とばかりに、兼続は活き活きと目を輝かせた。
 『例えば、こんな命題はどうだ』

     曰く、
 「石田三成」にとって、「島左近」という存在は、「義」であるかそれとも「愛」であるか。

 「……そうだった」
 と、自分の独り言で三成は目が覚めた。ということは、どうやら自分は知らぬ内に、眠ってしまっていたらしい。
 触れる外気が肌寒い。身体を起こすと、唯一暖を保っていた重みが肩からずるりと落ちて、寝起きで手元が覚束ないながらもそれを無造作に傍らへ引き寄せる。
 見覚えのある色に、形に、それからよく知る香りがふわりと鼻先を掠め、思わず三成はその羽織を強く握り締めた。
 おぼろに残る夢の余韻から徐々に意識は醒めたとしても、今ひとつ清々と気持ちが晴れないのは、あの兼続に押し付けられてしまった置き土産の所為だろう。
 自分の禄を半ばにしてまで、ひとえに欲しいと希ったひとりの男。戦働きや軍師としての才だけでなく、公にも私にも頼りとしている、自分にとって今やなくてはならない存在となりつつある、あの。
 (義か、愛かなどと)
 あれから数日を隔した今でも、まだずっと考えている。考えるだに、その論に適う道理とそこにまつわる感情が折り合わず、仕事が手につかなくなってしまうほどに。だがいくら考えても彼のことは、そのふたつだけでは何も始まらず、またそのふたつだけで終わろうともしない。
 強いて答えとするならば、そのどちらでもなく、あるいはそのどちらでもあると言えるのかもしれない。
 割り切れない。落ち着かない。狭間で、三成はそわそわと気持ちの振り子を揺らしている。なんと厄介な問題を残していったものかと、遠く遥か米沢の地で安穏と過ごしているだろう知音に向けて、内心恨めしい思いで満ちる。
 そんな折に、ごく控えめに襖が開いた。そこから顔を覗かせたのは、誰あろう、件の物思いの種とも言うべき左近であった。
 「おや、殿。目を覚まされたんですか」
 もうしばらく寝ていても構わないのに。声はなくとも、仕方なさげに緩んだ頬や目尻が言下にそう伝えている。
 「具合はどうです」
 「大事ない。……その、少しはよく眠れたようだ」
 それに足も、と口篭もりつつ謝意を述べれば、
 「それは重畳なことで」
 あっさりと破願して、断りもなく中に踏み込んでくるのを、まんじりとせず三成は眺めている。
 眼差しは物憂く受け止められた。左近はそっと足早く忍び寄り、すぐ傍らで膝を着いて、三成が抱えているこの屈託を読み解こうとその顔を覗き込む。
 「何か、心の内に思い煩うことがおありですか」
 囁きのようにして問う声は、限りなく優しく自分のことを気遣うばかりで、三成は刹那的に何がしかの言葉を失った。
 淵に清冽な泉の湧き出るがごとく、幾つもの感情がただ溢れ出し、それがすべての思惟も理も何もかも、あらかた押し流してしまう。
 やはり、無理なのだ。兼続の言うような、「義」だとか「愛」だとかいう言葉ひとつで、この男のすべてを括ることは出来ない。そんなお仕着せの枠を優に飛び越えて、彼はたった今もこうして、自分の目の前に位置しているのである。
 「殿?」
 「何でもない」
 寒い、とだけ告げた。左近はまだ真意を窺うような瞳で、しかしそれ以上のことは何も問わずに、そうですか、とただ頷いた。
 固く握った所為で拳が白く強張っている。そこに、節くれ立ったもうひとつの手が重なり、温めるようにやわやわと撫でさすり始めた。
 「火鉢を持ってこさせましょうかね」
 「要らぬ」
 はあ、と吐き出す息は薄らと白く凍えるが、三成は頭を振って左近の至極尤もな申し出を拒む。

 「おまえの手の方が、暖かい」
 「……それはまた、有り難き仰せで」

 冷え切った細い手は甲斐甲斐しく働く武骨な手によって、徐々に体温を取り戻しつつある。その柔らかな温みに深く感じ入って、三成はそっと物言わず目を瞑った。






 それから、さらに幾ばくかと月日を挟んだ、とある某日。
 「    それはそうと、三成。私の出した命題は解決したのか?」
 「ああ、そのことか。それなら、もうとっくの昔に終わった話だ」
 「ほほう。して、何と答える」
 三成は数瞬、遠く彼方を見遣るように目を細めて、おもむろに言う。
 「左近は左近だ。それ以上でもそれ以下でもなく、他にあいつを言い表せる言葉を、俺は持たぬ」
 あの口達者な兼続が、それを聞いてしばらく無言になった。三成はここに至っていっそ清々しい思いであったが、次の瞬間、
 「……なるほど、三成にとって島殿とは、『義』でもあり『愛』でもあり、また遍く世に在るその他すべてでもある、というのだな!!」
 などと甚だ誇大解釈と思しき言質を、世にも開けっ広げな大声でのたまうものだから、それはもう過去に類を見ないほど狼狽しきりに目を剥いた。
 「要するに島殿は、三成のすべてということなのだな!これは『愛』!これは『義』!」
 「待て、今の俺の言い分を聞いて、何故そういう話になるのだ!」
 「ああ、三成、私は今猛烈に感動している!この喜びを今ひとりの義友である幸村とも、即刻分かち合わなければならない!!そうだ、そうするべきだ、行くぞ慶次!こうしてはおれん、今すぐ信州に向かうぞ!!」
 「あっはっは、まったく義に篤く面妖な御仁だねえ。ま、アンタがそう言うなら、俺に異論はないさ」
 「なっ、ちょ……、おい、待て、落ち着け兼続!……笑ってないで止めてくれ慶次!」
 どうにも支離滅裂な展開に三成は頭を抱えたのだが、事はそれだけに止まらなかった。
 「……あれ?もう帰っちまうんですか?今来たところなのに」
 「島殿、感動を有り難う!三成と永久に末永く幸せにな!」
 「何だかよく分からんが、そういうことらしいぜ。ま、頑張んな」
 「??はあ、それはまあ、どうも」
 「!!な、もう、おまえたちさっさと帰れ!!」
 嵐のように去っていくふたりを、ほうほうの体で送り出した。後には、まったく訳が分からないと首を傾げる左近と、とにかく徒労感に襲われ身も心もよれている三成が残されているのみ。
 「直江さんは相変わらず元気ですなあ」
 のほほんとして左近がそう言うのを、三成はひどく物憂い思いで聞いている。
 後悔先に立たずというが、兼続の問答に馬鹿正直に付き合ってしまった自分の愚を今さら覚った。願わくば、兼続がふとした拍子にも、今回の事の顛末を左近に話してしまわぬよう。あとはただただ、祈るばかりである。









お粗末さまでした。
当初はもう少しあっ軽い話になる予定でした。
だって実はこっそりお祝い!なお話だったから!
今さら何を云っても例のアレです、「後の祭り」ってヤツです。凹。
手ぇばっか握り合ってるキモい主従で申し訳ありません。
ここまで読んでくださって、あああ、有り難うございました……ぺこり。
とにもかくにも五万打、めでたい!……あの、返品可なんで。
その旨仰ってくださればすぐにも回収いたしますので、どうぞお気兼ねなく……。




shina
五万打のお祝いに、唐突にいただいた素敵な小説です。本当にありがとうございます!
左近の存在は義であるか愛であるか、義であって愛でもあり、義でもなく愛でもない。言葉にできないというとなんとも陳腐ですが、本当にそうとしか言えない関係なんですね……!きらきら
暴走気味な直江さんとのらりくらりとしている慶次さん、そして空気な幸村…、どれをとっても素敵です。キュン
直江さんの「三成と永久に末永く幸せにな!」との言葉に、彼の三成さんにたいする愛が見て取れてまたこれもキュン……としました。
キュン死がほぼ確定したところで、本当にありがとうございました。これからもお世話になります!