「お好きだったのでしょう?」
「何がだ」
「また、ご謙遜を」
「ふざけるな。俺は何が言いたいか訊いている」
「……殿は」見せた、僅かな逡巡。
「俺は?」
「――本当は、内府公が羨ましいだけんでしょう?」
叩き付けた土瓶は当然の如く塵芥に成り果てた。
今しがた、伝習兵が殺伐とした云わば生臭い死合いを呑気に娯楽感覚で見物に来ていた農村民に分け与えてもらったものだった。
乳白色の残滓が胡座をかく左近に引っかかったが、特別気にした風もなく何処か冷めた瞳ですっかり激高した三成を見げていた。
ただでさえ、気が立っているというのに、そんな左近の落ち着き払った態度が怒りで濡れる切れ長の目じりを釣り上がらせた三成の神経を逆なでするのだろう。
なんだか、ひとり。
阿呆のようではないかと思う半面、後には退けなくなっている。
「この俺がッ、あの狸に劣るとでも言いたいのかッ!?」
気色ばむ大将に兵卒たちが野次馬をしてくるが、左近は犬猫でも追い払うように手首を払った。早く逃げるがいい。もう時間は残されていないのだから。
「もし殿が、狸殿ならここは泰然とお構えになっているでしょうなあ」
「何ッ?!」
「ほら、そこ。すぎに殿は噛み付きなさる。この左近とてそうそう突き放されてばかりでは参ってしまいますよ」
「ッ…貴様ッ、俺を愚弄するというのかッ」
「その綺麗なかんばせを歪めますな。そこは狸殿も逆立ちしても手に入ることのできない殿の長所ですよ」
完全に相手を手のひらで転がしているかのような口ぶりである。
三成の矜持は人一倍高い。
己が突き進むことこそ正当で、それは非なき善行であると考える。
融通が利かないとはこのことだろう。
何より他人の失策を許さない。
否、そもそもそのような愚考。計算のうちにないのかも知れぬ。
非道を歩むことになろうなどとは、決して。
折角、帯びた傷の消毒液の代わりだったのに勿体ない、と左近は飄々と丁寧に皮の厚い手で欠片をひとつひとつ寄せ集めていく。
三成は何があろうと自らの一番の理解者だと自負していた同士が発した突飛もない世迷言に愕然としながらも、酷く自尊心を中傷された気がして不遜に侮蔑の籠もった色で相手を見下していた。
なにを下らない妄言を吐いているのだこの男は。
陶器の擦れあう音だけが、その場に波風を立てぬようか細く響いている。
「何が、おかしい」
呻く三成は自己への煩悶と葛藤にすら、困憊していることが悔しくてならないというようだった。
左近は、小さく咽を震わせて最後のひと欠片を手中に収めた。
そして、また土に返す。
「素直に甘える方法を殿は知らないだけなんですよ。世間様は存外、美しい」
「戯言を」
筋肉を緩め気だるそうに鼻を鳴らして、嗤う。
それは三成の癖であった。
皮肉めいた。だが、自嘲しているようにも見受けられるということを知る者は砂が指先からこぼれるようにひとり、またひとりと彼の目の前から失われてゆく。
「お前の言いたいことはそれだけか。解せんな」
三成の声音は平板だった。
そうしようと動揺を抑えて勤めているのか。
はたまた、目の前の男を愚鈍と見切りをつけて諦めという境地に達してしまったか。
左近はなおも続けた。
「殿は寂しがり屋ですからねえ。
いとも簡単に人の輪をお作りになられる家康公が羨ましくて羨ましくて、本当はそうありたいと憎らしいのでしょう?消し去って安堵を得たい。まぶしすぎて己の惨めさを直視できないから。
それを認めようとなさらないから。目障りなのですよね?
まるで、子供の悋気だ。だから、殿は打ち崩しに行くのですよね?
どうあがいても、あがいても、全て裏目に出てしまう自分と疾風の如く駆け抜けるように易々と欲しいものを手に入れて上へ上へ行ってしまう者が妬ましいから」
「…馬鹿馬鹿しいッ……口を慎め。名代の軍師が聴いてあきれるな」
「何が違うのですか?苦しいくせに。投げ出したいくせに。本当は何のために武装するのか、もはや明確なことなどわからないくせに」
「……違うと言っているッ!!貴様の耳は飾りかッ……!!わからぬのかっ、ダマレッ」
三成は武将の鎧をも打ち砕く鉄扇を左近の咽元に突きつけた。
あと一言、紡げば粉砕するぞと。本気だった。これは忠告だ。
それでも、左近の双眸は三成を射抜く。
真っ直ぐに鋭利に。暴くように晒すように。見透かすかのように。
「では、なぜ。誰ひとりとして殿自らの手を汚そうとは思わないんですかい。
政所様。福島殿。加藤殿。内府公。……あまつこの左近でさえも。殿にはいくらでも機会が合ったはずでしょうに。
誰よりもそれら存在に近かったのは、殿おひとりだ。
そんなもの、なかったとお逃げになられますか。
秀吉公の天下のために必要な駒だったと言い捨てますか。違うでしょう。三成さん。
他の誰のためでもない。
色に狂い最期には梟雄の鋭才を欠いた今は亡き羽柴筑前の守のためでも。
豊臣の存続を願うという民のためでも。
ましてや、三成さん、アンタが遣えたのは秀吉公であり、なんの忠義もない遺子秀頼君のためでもない。
真に忠義を張るというのなら、とっくの当に、アンタの義は露と共に消え果たはずだッ!!
三成さん。アンタが一番、恐れているンでしょう?
徳川殿が幅を利かせ始めたのが目に余るのは、アンタの世界の均衡が崩れはじめているからだ。
それに怯えているんでしょう?だから、自身を護るためだけに刃を構えた」
失敗を認められぬのは、役立たずの烙印を押され失望されることを恐れているからだ。
幼き頃より親のぬくもりを知らず、精神だけが成熟した寺小姓になり、あやふやな存在を認めてくれていた救いを無くしたくなかったからだ。
人は青い。
青いと書いて「情」と読む。
人間は情の生き物だ。
本能だらけの獣との区別はそうして付けられてきた。
憎むということは、生きることよりも難しい。
羨望も、嫉妬も、恐怖も、畏怖も、歓喜も、悲壮も。
常に愛情と表裏一体にあるその感情は、相反しながら溶け合えずにいつまでもいつまでも、しこりになり膿になり腐敗してゆく。
血の涙を流すよりも陳腐で滑稽で、それでも咎の谷底に落ち込もうとも人とは希望を見出してしまう生き物なのだ。
三成は感情のままに鉄扇を振るっていた。
避けた口内。熱を孕んだ片頬。
震盪を起こす頭蓋。しびれる鼓膜が耳鳴りを生じさせる。
舌の肉を微量ながらに噛み切っていた左近は、口角から滴る鮮血をぬぐい、顎の調子を確かめた。
そして、微笑すら浮かべてみせる。
「さ、こ……」
この時初めて、能面のように涼しい三成の表情に怒り以外の戦慄が走る。
指先の感覚は気がつけば消えうせ、それでも皮膚がへばりついたように鉄扇を離さない。
「常に狸殿はアナタの雲上にあり目標だった。
それが、殺意を向けるべく相手に変わった。
理想そのものであったのに、もうどうすることもできないままに土台が出来上がってしまった」
左近は立ち上がり呆然と憔悴した幾分も繊細で華奢な主の身体を抱き締めた。
下腹部に受けた銃痕は痛みを忘れていた。
何故、この男こそ己を見限らぬのだろう。
哀れみか。
施しか。
癲狂でもしたか。
これも、二万石分の働きだとでも云うのか。
「殿、負けを認めてしまいましょう。
アナタはいつだって優しくて、そしていつだって後悔ばかりしている」
昼が過ぎて、そこには何も残らなかった。
崩壊の音は、G線上のアリアを奏でて
(これを憐憫というのなら、皮膚を掻き毟りたくなるほどの狂おしさはなんだろう)
(1108)
主従を越えた同士だからこそ、視えたもの
「宴もたけなわ 絆の深い主従」を下さった椎名しいな様へ捧げます
四万打おめでとうございます!!
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shina
『春と修羅*』小鹿秋浩さまよりいただきました……!
三万打記念でフリリクをされていたので、便乗してリクをしたところ、なんとまあ!四万打おめでとうということでいただけるとの慈悲深きお言葉!
お言葉に甘えてサイトへアプさせていただきました!
決して転回しているわけではないのに、胸が締め付けられるようなこの焦燥感、容赦なく続く糾弾、顔をそらしつづける駄々っ子のような三成……。この圧倒的に押し寄せてくる言葉の力に、思わず絶句してしまいました。
なんと言ったらいいのか本当にわからず……。
確かに言えることは、こんな素敵な小説をいただいてしまい、世の中のムソファンさまにごめんなさいということです。
本当にありがとうございました……!
11/10