折り入って話がある、と秀吉に呼び出された主人三成に供として付き添い、今はその彼の帰りを、邸内のとある一間でひたすら待っている。
 何ごともまずはさて置き、おのずと暇を持て余すのみである。
 極めて退屈な身の上となってから、早くも時は半刻なりと過ぎてしまった。その手空きの間にもてなしと受けた茶も菓子も、何となく手をつける気になれず、左近は縁側に続く襖を開けて、美しく整えられた石庭の辺りを茫洋と眺めている。
 風はなく、遠くで鳥が高く鳴いている。空はまったくの快晴で、雲ひとつない。
 徒然なるままに遊ばせていた思考も、そろそろ種が尽きてきた。さてこれからこの余暇をどうやり過ごしたものか、先の長さを案じる程に少々草臥れてきた、ちょうどその時分のことである。
 隣と間を隔てる襖が、そっともの静かに音を立てて開き、行儀のよい足音がすぐ背後で忍び寄ってきた。
 奥の女中が気を利かせてまた何かしらと持ってきてくれたのか。そう推し量って顧みれば、そこに居たのは他でもない、ずっと待ち侘びていた石田三成その人であった。
 後ろ手にこちらを覗き込むような仕草で、じっと生真面目そうに左近を見ている。予想以上に彼我の距離が、近しくあった。
 それを怪訝に思う間もなく、切れ長の清澄な瞳に気を呑まれ、ひとつ反応が遅れてしまった。加えて、能面のごとく感情が薄く映える三成から、
 「左近」
     と、常のように呼びかけられて、ふと奇妙な違和感があった。
 何処がどう違う、といちいち正しくは言葉に出来ない。だがその些細な躓きを、有耶無耶の内に流すことも出来ない。
 三成はすとん、と傍に膝を着き、いざるようにしてますます近付いた。何やら、ただならぬ気配がある。微妙に色づく雰囲気のさなか、心持ち左近は顎を引き身を仰け反らせ、胡座から立て膝と座し方を変えてまで、努めて適切な間を取ろうと試みる。
 意図せぬ内に始まった不可解な駆け引きは、どう鑑みても出遅れた左近の方に不利があった。迷う暇も与えられず、じりじりと三成は身を寄せてくる。その彼から逃げるに逃げ切れず、左近はとうとう支柱の際までに追い詰められて身じろぎひとつ叶わなくなった。
 見慣れているはずのその秀麗な顔が、今はひどく遠くに在る人のようにも覚える。拭い切れない不審な兆しが、流されそうになる左近を間際で引き止める。
 「左近」
 「何ですか」
 思わず声が上擦った。もやつく戸惑いが吹っ切れない。殿、と言い掛けたがそれに先んじて、三成が口元を柔らかく綻ばせる。

 「お菓子をくれなきゃ、悪戯するぞ」

 「…………は?」
 「お菓子をくれなきゃ、悪戯する」
 二度繰り返されても、その言葉の意味するところを、字面の通りには飲み込めない。
 恐らくは間抜けな面をしているであろう自分に向かって、彼の御仁は艶然と円い笑みを満面に湛えて、なおも楽しげに迫って来た。
 「菓子をくれるか、悪戯されるか」
 「な、何を言って……え、あ、殿?」
 「さあ、左近。おまえの好きな方を選ぶといい    
 いよいよ進退窮まった。左近は彼の、いかにも見目麗しいその相貌を間近にしながら、疑念と混乱の内にただただ息を詰めて状況を見守る以外に術がなかった、のだが。

 「    おねね様!!」

 青天に走る稲妻のごとく怒号が先に飛び込み、それからすぱんと勢いよく襖が開け放たれる。形振り構わず駆けて来たのだろう、普段はきちんと折り目正しく整えているはずの衣服も髪も、雑に乱れてすっかり息が上がってしまっている。
 そこに立ち現れたのもまた、石田三成その人であった。
 きっと睨み付ける目元は赤く、握り締める拳は怒りか恥辱かそれともその両方か、今にも振り上げてしまいそうなくらいに力強く震えている。左近と、もうひとりの自分が恐ろしく近い距離で対座しているのを目の当たりにして、その激昂ぶりはますます高じた。
 「なっ、なな……、何を、しておるのだ貴様!」
 「    あ、いやその……、って、え?」
 剣呑に鋭く切り込む矛先は、何故だか事の発端である『彼』を通り越して、そのまま真っ直ぐに左近に突き付けられた。
 そんな殺生な、と左近はうろたえつつ、とにもかくにも元凶であるはずの眼前の三成を押し退けて立ち上がった。そこへ、大いに肩を怒らせたもうひとりの三成が、ものすごい剣幕で掴み掛かる。
 「この……、さっさと離れろ、不届き者めが!!」
 「えっ、て俺が悪いんですか!?」
 「今さら何を言っている!!破廉恥極まりないわ!!」
 「破廉恥って……、まだ何もしてませんよ」
 「当たり前だ!いったい何をする気だ!!」
 やかましく言い合うふたりのそばで、最初の三成がぽつんとひとり取り残された形で、じっとその様相を眺めている。
 言っていることも大概支離滅裂だが、何とも理不尽かつ不条理この上ない展開である。
 というより何よりもまず、三成がふたりいる。その驚くべき実情については、どちらもまったく触れようとしないのか。
 左近は内心頭を抱えるが、例えばそれを認めたとしても、この現実が何ら変わるべくもない。へたり込む三成が消えることもなければ、目の前の三成は鬼もくやと恐ろしい形相をしていて、その勢いは収まりそうにない。
 堂々巡りのひと悶着だ。そこへ、明らかな笑い声が出し抜けに弾けて、三成も左近も一旦お互いに揉み合う手を止めた。
 「……あーあ、もう止してちょうだいよ。ふたりとも」
 聞き覚えのある女の声だ。続いて、ぼわっと白い靄が足元から生まれ、煙たくはないが遮られる視界にふたりともおのずと目を細める。
 果たしてその薄曇りの幕が張る此方から現れたのは、かの豊太閤も恐れ敬う豊臣幕下の陰の大黒柱、ねねであった。
 「お、おねね様……?」
 「だからさっきもそう言っただろう!」
 ようやく我が意を得たり、とまだふて腐れている気はあるが、ひとまず落ち着くところまで落ちて冷静になったらしい。三成は、未だにぼやけた思考要領を得ない顔で居る左近にその愚を知らしめるかのごとく、どん、と苛立たしげにその肩を小突いた。
 その狭間に居て、ねねは一事を成し遂げた後のごとく、得意顔で胸を反らしている。
 「ふふん、あたしの忍術も捨てたモンじゃないだろ?」
 「おねね様、おふざけも大概にしてください」
 「もう、まったく愛想のない子だねえ」
 聞きなれた小言だがこの場にあっては地雷の如く、三成の眉間が一層深くしわを刻む。
 既に見慣れてしまった仏頂面にことさら怖じる風もなく、ねねは溜息をついて、いいかい、とひとつ前置きすると言った。
 「あたしはおまえのためを思って、こんな真似をしているんだよ?」
 勿体ぶった科白に思考を混ぜ返されることもなく、三成はごく平坦に声を整えてねねを見据えた。
 「何がどうなれば今のとんでもない戯れ事が私のためになるのか、ひとつひとつ丁寧に、噛み砕いて説明願えませんか」
 「……もう!」
 目が皿になった三成に、ねねはぷっと頬を膨らませる。
 「あたしはね、三成にみんなともっと仲好くして欲しいんだよ!」
 そしてその手始めとして、まずは左近に先刻のような悪戯を仕掛けた、というのが事の次第であるようだった。彼と接する機会の多い自分の反応を見て、今後の方策に役立てようとでもいうのだろうか。
 周囲との諍いが絶えない三成を案じる、彼女の気持ちは分からないでもない。だがそれにしたって、他にもっと良いやり様があるだろうに。ねねの発想は何処か突飛な思いつきに満ちていて、まったく余人の手には負いかねる代物だ。
 それは今回の当事者であり彼女との付き合いも長い三成が、一番強く根深く思い知っている事実なのだろう。彼は努めて冷静に、とおのれに言い聞かせるように、ゆっくり息を吸って吐いてと往復を重ねる。
 「仲好く、とは具体的にどういうことです。私にもあれにも分かるように、きちんと言葉にして仰ってください」
 「もう、この子は口ばっかり上手になって」
 眉尻を下げたねねがふっとこちらに目を向ける。くるんとした瞳は好奇心の強い猫のように、左近を捉えたその後ふわりと円くなる。
 「でもまあ、左近は大丈夫だね?」
 「……はあ」
 「ふふ」
 何がどう大丈夫なのやら曖昧ながら、とりあえず逆らわずに相槌を打っておく。ねねは小首を傾げて微笑み、ぽんぽん、と小さい子どもを宥めるように肩を叩いた。
 「左近、三成のことを頼んだよ」
 「……はい」
 「…………」
 「それじゃあね!」
     そして嵐が過ぎ去った後、左近は怒り冷め遣らぬ態で憤然と佇む三成とふたり、この場に残されてしまった。
 恐る恐ると傍らを見た。涼しい面が紅潮の名残りをほのかに帯びて、ただむっつりとねねの消えた彼方を睨み据えている。まじまじと向ける物問いたげな視線を感知してはいるのだろうが、今はそれにかかずらう余裕もないのか、それとも単に決まりが悪いのか、けしてこちらを見ようとはしない。
 さてこの先は如何様にして、こじれてしまった三成の機嫌を取り直したものか、ここが思案の煎じどころでもある。
 思いあぐねて定まらない視点は行き場を探してうろうろと辺りを巡る。ふと、放置の体たらくにあった菓子と茶が目についた。
 左近はそっと三成から離れ、部屋の中央にあるそれらを手に取った。袂に入れて立ち上がったところで、何気ない風を装いこちらを振り向いていた三成と目が合った。
 今さらにして徒労に襲われ力なく笑いかけると、不愉快そうに片眉を上げ視線を外されてしまった。つんと反らせた顎先がいかにも強情な素振りで明後日の方を向き、三成は頑なに口を利こうとしない。
 けれども彼のすぐ隣まで歩みを寄せ、そこで立ち止まっても特に何言も咎められずに済んだので、左近はひとまずそれでよしとすることにした。
 「とんだひと騒動でしたな」
 率直に思うところを述べれば、随分と長いこと時を待って、微かに頷く気配がする。
 「大殿の話は済んだんですか?」
 「……ああ」
 「ならばここでひと息落ち着いてから、帰りましょうか」
 「そうする」
 ようやく彼の声から硬さが抜け落ち、それからほとほと疲れ果てたとばかりに溜息がその後を次いだ。縁側でどかりと胡座をかく左近に対し、三成はぎくしゃくと不器用に足を崩しつつも背を正してそこに座する。
 「……何だ」
 何とはなしにしげしげと、左近は物も言わずに三成の所作を見つめていた。それに不審を覚えたのか、彼は怪訝そうに小首を傾げてみせる。
 なるほどねねの変化の術は確かに、石田三成というその形容をごく忠実に模していたように思う。忍びとしての彼女の腕前はまさしく熟練を極めており、それは疑念の及ぶ余白もないほどに明白な事実だ。
 だがどんなに造作が似ていたとしても、たとえば物言いや所作を精確に真似たとしても、左近にしてみればそれはやはりまったくの別人としてしか映らない。
 「いえ、ちょっとね」
 左近は苦笑って顎をさすりながら、噛んで含めるようにしみじみと呟く。
 「殿はやはり殿のままが、一番だと思いまして」
 「……先のことは、もう、忘れろ」
 何があったか知らないはずだが、つくづくと想像するだに嫌な情景しか思い浮かばないのだろう。
 地を這うがごとく低く唸って、ひとつひとつ噛み締めるように三成は言う。そこに乗じてさっと赤味を薄く刷いた頬が、何処かあどけなく見える。
 口の端に上る微笑はなおのこと深まり、左近は袂を探って、先ほどから食い損ねていた菓子を取り出した。殿、と呼び掛けるとしばし逡巡の間を置いて、三成はおとなしくこちらを向いた。
 薄紙に包まれたそれを、手のひらに乗せて彼に差し出した。ますます三成は訝しい面持ちで、それでも拒まずに受け取った。
 「何なのだ、いったい」
 そう言いながらもその指先は既に、小さな包みを解いて中身を確かめている。ただの茶菓子と知れてもまだ疑り深く、ひと口分と細かく割ってからようやくのことそれを口に運ぶ。
 その慎ましく行儀のよい作法をひと通り横目に見届けて、左近はしれっと事も無げに言ってのけた。
 「だって、お菓子をあげないと悪戯されてしまうんでしょう?」
 「…………」
 ごくん、と菓子の塊は飲み込めたのだが、今自分が告げた言葉の欠片は、そう簡単に喉を通らなかったようである。
 嚥下してしばらくは黙然と、俯きがちに考えている。やがて導き出される結論の先ではっと上がったその顔は、羞恥と混迷がない交ぜになってものの見事に鮮やかな朱に染まっていた。
 その顕著な徴にさすがに堪え切れず、左近はついに吹き出した。
 「    っ、な、き、貴様!」
 「    っはは、顔が真っ赤ですよ」
 「うるさい、俺はもう帰る!!」
 癇癪紛れに立ち上がり、ずかずかと足音荒く勇ましく、三成はその場を後にする。
 「待ってくださいよ、殿」
 「知らん!!」
 引き止める声は何処となく安穏と能天気に響いた。無論、三成の猛然と突き進む歩みは止まらない。
 左近はなかなか笑い収まらぬまま鷹揚に立ち上がると、その甘さの欠片も見受けられない、意地っ張りな背を追いかけた。









「徒然。」琴蕗様のハロウィンフリーSSを萌えと悶えの限り強奪してきました……!
ありがとうございます!
左近のヘタレっぽいようで大人っぽいあたりが妙にツボで呼吸がいつまでたっても整いません。
ほんとうにありがとうございます!