嵐の前に音もなく訪れる、張り詰めた静謐の中に居る。
 人馬ひしめく前線に立ち、左近は慎重に気息を整えた。焦げ付くような緊張がじりじりとその輪を狭め、この身を圧して迫り来る。それを呼び水と内から徐々に戦闘態勢へ切り換わってゆく、その瞬間が、実に心地好い。
 馬の嘶きも飛び交う人語も、今はもう遠い。
 殺伐とした昂揚に包み込まれるさなか、ふと近くに寄る影があった。左近は傍らを顧みて、それから引き締めた口の端をにやりと歪めた。
 殿、と呼びかけたが応えはなく、切れ上がった涼やかな瞳がこちらを向くばかりである。
 冷たく取り澄ました顔ばせの内にありながら、その眦だけはきっと薄く朱に染まる。
 「左近、頼りにしている」
 そしてその口唇からこぼれ落ちる真摯な声が、ひとえに自分を強く戦へと駆り立てる、その拠り所となる。


 秘 す れ ば  と も   


 浮ついた騒々しさに満ちる酒席で、顔見知りの数人とともに杯を重ねている。
 圧倒的な物量差で押し切り、薩南の強豪島津を従えた九州征伐から幾日かを経た。戦後の処理も滞りなく終わり、いよいよ日の本全体を長らく覆っていた戦乱は、終結の芽を兆しつつある。
 そんな頃合に開かれた、豪奢な夜宴である。
 万事につけて何かと派手めを好む秀吉が開いたとあり、戦勝祝いも含めて大々的に執り行われている。右に左に居並ぶ武将の顔ぶれも並みでなく、それぞれ酒杯にひと時の憩いを求めながら、その水面下では今後の行く先を占う駆け引きが懇ろに行き交っているに違いない。それを横目に、徒然と思惟を馳せながら、左近はとくと満たされた杯をひと息に呷った。
 おのが主人である石田三成も、その例外に漏れることはない。だがそういう方面に至っては、まるでなってはいない彼の仕儀を推し量る。
 良く言えば正義に篤く、悪く言えば融通が利かない。ゆえに、それぞれ行き交う思惑の表裏を読み解き、状況に即して是非を判ずることや、場合によっては清濁を併せ呑み中庸を取る、ということが出来ないのだ。
 多少の酔いにふわふわと流れる浮き雲のような想像は、事実と比肩してみるに中らずといえども遠からずといった按配に違いない。かの理非に厳しく不遜な三成の気性を思えば、それは容易に察しのつくところでもある。
 だが、そういう物堅いところがよい、と左近は胸中を締め括る。我ながら酔狂な趣きだ、と認める他になく、手持ち無沙汰に杯をもてあそんだ。
 今頃は、あの冷徹な細い面も馴染めぬ酒精に中って、色好く染まっているのだろうか。
 ちらりと目を遣り様子を窺うだけのつもりが、行き着いたその先ではた、と視点が定まった。
 追って目を離せずにそのまま、空になった杯を下に置いた。鷹揚に立ち上がると、すぐ傍に座っていた知己が訝しげにこちらを見上げる。
 「どうかされましたか、左近殿」
 「いいや」
 赤ら顔での問いにあやふやに笑って、顎をさすりながら見下ろした。
 「少し、酔いが回ったと思ってね。夜風にでも、当たってくるかと」
 当り障りのない答えに、ああ、と得心のいったように頷く。その、疑念の入り込む隙のない素直さに、左近はひとつ笑みを深める。酒気を帯びているせいもあるが、戦場においては槍を取って他に並ぶ武者は居まい、とも評されるほどの男である。だというのに、このあどけない所作に物言いは如何なものか。
 そこに何とも形容しがたい可笑しみがある、とそんな風に気を巡らせて興じるぐらいには、自分も酔っているらしい。
 左近の胸中でとぐろを巻く不可解な考察など、微塵も気取らぬ様子で、件の彼は爽やかな笑顔を見せた。
 「足元に気をつけて」
 「幸村さんも」
 意識は既に他所へと向かっている。去り際、この口から落とす呟きはどうしても、おざなりなものになってしまう。
 「あまり飲み過ぎないように、気をつけてくださいよ」
 はい、と殊勝な返事を背に受け止めて、左近は華やぐ座敷をそっと後にする。


 軋む板縁に構わず、右に左に少し危うい足取りで進む細い背を追う。晧々と薄く辺りを照らす、月明かりのみが頼りとなる宵闇は、染み入るほどに他の物音も絶えて、清閑としている。
 宴の喧騒からは遠く離れて、もう何も聞こえてはこない。
 ふ、と先を行く人影が立ち止まった。左近が気付いて歩を止めたその隙を、狙い澄ましたかのように彼はくるりと振り向いた。
 じっと胡乱げに目を凝らす三成に、左近は隠れようもなくただ苦笑を浮かべた。完全に、とまではいかないが一応彼の気を妨げぬよう、気配は殺して後をつけていたつもりが、どうやら当人には疾っくの昔に気付かれていたようである。
 何となくかける言葉も見つからず、しばらく見つめ合ったまま黙っていると、その内に三成の眉間から険が失せた。ふう、と微か尖らせた口先から億劫げに溜息を落とし、肩先から僅か解れた髪をひと房払い、仕方なさそうに目配せで自分を傍らへと呼び寄せる。
 横柄といえばそうなのだが、恐らくは独りになりたかったのだろうという推測も出来て、無碍に逆らう気も起きない。左近はおとなしく従った。
 「何か用か」
 「殿の方こそ、せっかくの宴を抜けて何用ですか」
 「大事ない」
 間近に寄ればはっきりと、彼のその端整と辿る輪郭が見て取れる。
 「酔いが過ぎた、と少し外に出たまでだ」
 「その割りには、随分と遠い離れの方まで来てしまいましたな」
 「それは」
 言い掛けてすぐに噤んだが、目顔で促すとようよう決まり悪げに口を開いた。
 「おまえが後から、ついてきていると思ったからだ」
 俯きがちになる。伏せた睫毛が色濃く、その頬に影を落とす。
 目元が仄かに紅を刷くように染まっているのは、まだ酔気が抜け切らぬ所為だろう。もともと三成は酒に弱い性質である。そのうえ色素が薄いために、一度血の気が肌に上がると、いっそ見事なほどに著しく顕れるのだ。
 その道理を知っていながら、左近はその指先を伸ばし、目の隈を確かめる素振りでそっと触れる。親指の腹でつ、と撫でると、そこは意外にも柔らかい。
 (    ああ)
 戸惑いを絡めた眼差しが、自分をじっと見ているのが分かる。拒む気配はないものの、どう処していいのか分からず、思いあぐねているようである。
 これが常日頃なら厳しく突っ撥ねてお終いだというのに、どうにも反応が鈍い。
 努めてあっさりとその頬から指を引き揚げる。あめ色の瞳が何気ない風にそれを追いかける、それは離れてゆく温みを惜しむようにも見える。
 他意があるとも思えない仕草をそんな風に受け取るのは、主観が孕む感情的な部分の偏りが、あまりに過ぎているからなのか。
 (いけない、な)
 彼の無防備さがこうまで露になっているのも、そしてそれを言い訳に簡単に触れようとするのも、やはり身に過ぎた酔いの仕業だろう。
 埒もなく騒ぐ心中を戒めて懐手に腕を組む。三成は、ぼんやりと捉え所のない瞳でこちらを見ている。
 「俺に構うことはない。おまえは、戻れ」
 逡巡の間を置いて、三成はそう言い捨てるとふい、と顔を背けた。
 後はそのまま潔く踵を返し、この場から立ち去ろうとする。にべもないその背を、左近はごくさり気ない調子で呼び止めた。
 追いついた先で咄嗟に肩に手を置くと、三成はしぶしぶ歩を止めて顧みた。
 「ついて来なくともよい」
 「酔い覚ましなら、付き合わせてくださいよ」
 「左近」
 まだ何言か続けようとした、その口先を制した。
 「そう、つれないことを言わずに、ね」
 宥めるような物言いになった。察したのか、彼は不愉快そうにむっと眉根を寄せて押し黙る。それは小言にむくれる子どもの様にも似て、そのいとけなさに頬が緩むのを咎めることが出来ない。
 三成は、しばらく思案をしている。うろうろとさ迷う視線は斜めに左近の辺りを横切り、やがてひとつところをじっと見据えた。
 「好きにしろ」
 「好きにします」
 「……ふん」
 肩に乗せたままにしていた手の甲に、さらりと赤い髪が流れて、すぐに離れた。
 手をどけてやると三成は再びさっさと歩き始めたが、その速さは独り善がりではない。
 隣に並ぶと、横目に弱く睨まれた。素知らぬ顔で何言かと問い掛けてみれば、
 「つれないのは、おまえの方ではないのか」
 思いもかけない言葉が寄越されて、しばらく唖然と、間近にある澄ました面をまんじりと見つめるだけになった。
 してやったりと笑み曲がる、その形の良い口唇が小憎らしい。そう思いながらも、左近はそこから目を離せず、その場から動けずにいる。
 来るなら来い、と促されて、ようやく現実へと立ち戻った。数歩遅れて左近はのそりと踏み出し、後はいつもの通りである。
 存外、自分も単純に出来ているらしい。そんな複雑な想いは何処へともなく仕舞い込み、消し切れなかった苦い笑みだけが口の端に残り、そしてほの暗い道を三成の赴くままに続く。
 月の明るい夜は冥々の内に、闇色を次第に深めて静かに更けてゆく。


 いつの日からか、胸の奥にひとつ、柔らかく綻ぶ花がある。
 戦場に立つその凛と張る姿と、傍らにあるその他愛なく緩む姿と、どちらも様相はまるで違えど、ただただ美しい。












10/26
『徒然。』の琴蕗様より素敵過ぎて身に余る小説をいただきました!
ありがとうございます……!
「真綿で首を絞めるような激情と、相反する理性の葛藤がイコールで生み出す穏やかな雰囲気」などという気持ちの悪いリクエストを快く承諾してくれただけでも嬉しいのに、それを上回る素敵すぎる文章。頭があがりません。
メンルでも申し上げたとおり、三成の表情に落ちた影すらも、脳内で巧緻に描くことができるほどの情景、顔に触れる左近のどこか恍惚とすらしていそうな表情、お互いに歩み寄っているのだろうけれども一定の距離を保っているかのごとく言葉を隠す様が本当に理想で、そしてうっとりとした余韻に幸せな気持ちになれました。
これほど素敵な文章に出会えるなんて私の人生救われました。本当にありがとうございました!