「殿、家康殿がお嫌いなのは百も承知しております。しかし、もう少し大人の対応というものはできないのでしょうかねえ」

 子供のように癇癪を起こして、障子を蹴っ飛ばしたくなるのを必死で堪えた俺を「よく耐えた」と褒めるどころか「もっと大人になれ」と叱咤するのは、俺に平気で軽口を叩く一番家老の島左近だった。
 俺はこれ以上にないほど自分なりに大人であったつもりだし俺がタヌキを嫌いなことがわかっているんだったらあまり求めるのも問題だと思うしそもそもどうしてそのことを知っているんだとわざわざ説教をするためにそんな情報を集めているんじゃないかと勘ぐってみたりしたのだが、それを音に下せばその倍の説教が待ち受けているのを知っているので、俺は黙った。
 主従ではなく、同志、友として迎えたのだから形式にはこだわらないのが仇となったか、と少しだけ思った。だが俺は自分を崇め讃える人間はいらないと思っている。少しばかり俺に問題があるのはもちろん自覚している。だからこうやって説教にだって耳を傾けてやるのだ。

「都合が悪くなるとだんまりですか。些細でいたいけな反論だと思う人間はそう多くありませんよ」

 俺は全ての人間に理解されたいとは思わないし、そんなことは不可能だと思っている。俺は左近一人ですら理解できないのだ。もしかすると俺が特例なのかもしれないが、他の人間だってどんぐりの背比べのはずだ。誰だって誰も理解できないはずなのだ。
 そもそも俺は反論などしているつもりはない。ただこれから待ち受ける説教を黙って享受しようという心構えのつもりなのだ。だがこんなことを言って、そういう憎まれ口が云々とまた新たな説教が俺を覆いつくすのは火を見るよりも明らかであったので、やはりなにも言わなかった。

「あんまり拗ねないでくださいよ。左近は悪意から申し上げているわけではないのですよ」

 そんなことは知っている。悪意からそんな説教を垂れる人間がいるのならばよほど暇人に違いない。左近はそれほど暇人ではないことくらい俺がよく知っている。だからこそ暇人ではない左近のために余計な時間を割かずにさっさと説教を聞いて終わらせてやろうとしている俺の好意を理解できない左近が問題なのだ。
 俺も左近も決して暇ではない。むしろその逆で、忙しいと言ってもいい。だからタヌキとの些細で一方的な悶着ごときで説教と反論そして討論などに時間を費やすのは非常に無駄である。時間とは無限ではなく有限なものだ。その貴重な時間をくだらないことに使ってしまうなど愚の骨頂。
 俺はさっさと左近の説教を終了させて筆を執りたいのだ。

「まるで左近は地蔵に話しかけているみたいですな」

 そんな嫌味を言う暇があればとっとと用件を済ませろ。
 嫌味には嫌味で対抗する。俺が黙っているのは簡単なことだ。左近が「少々、言葉を尽くしすぎるようですな。その言葉の節々に賢さが垣間見えるのですが、無用に敵を作ることは賢いとは思えません」なんてことを召抱えたばかりのころに言ったのだ。それを左近が覚えているかは知らないが、俺は覚えている。暗にばかと言われたのだからな。
 だから、ここはその見せかけの賢しさを真の賢さにするために俺は黙るのだ。いい嫌味であろう。
 左近は大きなため息をついて、少しの間、目をつむってなにかを考えている様子だった。そして、まぶたを上げて幼子を諭すような口調で語りかけてきた。

「眼力で人は改心などしませんし、ましてや死ぬこともありません。ならば、差し障りのない表情でいたほうが得でしょう? 理に適っていませんか?」

 つまり左近は俺に、タヌキに向かってあからさまな敵意を顔に出さず、微笑んでおけということを言っている。
 こいつは俺の人格を破壊し構築しなおしたいのだろうか。俺は寺小姓になり、秀吉様に召抱えられ、様々な紆余曲折を経てこういう人間になったのだ。それを曲げよと言う。確かに理に適ってはいるからできるものなら一度くらい試してやってもいいが、俺が俺であるかぎり、決してタヌキには微笑みなどせぬ。
 それにしても左近はおもしろいことを言う。嫌疑の眼力で人が死ぬわけがないと。その通りではあるが、もしそのようなことがあるのならばタヌキは何度死んだかわからない。いや、嫌疑などという生ぬるいものではなく、もはや確信だ。あのタヌキはかならず豊臣家を揺るがす存在となる。そうなってからではあまりに遅い。だから俺は警戒を怠らぬだけだ。それなのに皆、俺を諌める。非常に気に食わない。

「殿、ちゃんと聞かれていますか。なにも媚びへつらえとは言っておりません。ただ、あからさまな態度はおよしなさいと忠告しているだけなのですよ」

 タヌキが死んだならば、秀吉様がお亡くなりになられた場合でも豊臣を揺るがすような人間はいない。それほどの気概や実力を持つ人間など三本の指にも満たないはずだ。実力も気概も併せ持つタヌキは脅威だ。
 目の前であぐらを掻く左近を盗み見る。とはいえ、左近は俺を正視しているから俺が左近を見たことなどすぐに気付いたはずだ。
 先ほど、悪意がどうこうと言っていたがこれは好意からの説教であることはよく知っている。左近は俺のこういった敵を作りやすい性質が二番目にお気に入りなのだ。だから本心はそれを諌めるつもりは微塵もない。しかし、それは俺を破滅へと導くとこの男は思っている。それは一番のお気に入りである、俺自身の喪失となる。そうなっては元も子もなくなり、背に腹は変えられんとしてそれを斬り捨てるのだ。
 左近にそういった自覚はないだろうが、俺はただ豊臣家を守るための行動を取っているのに、この男は俺のために行動する。
 気に入らない。俺はいくら豊臣家のためと銘打っても、結局は自分のためである。言うなれば、秀吉様から受けた恩をお返しするというような意味で、一種の自己満足に近い感情なのだ。わざわざ「豊臣家のため」と言葉にしていることが良い証拠だ。
 だがこの男は違う。俺は左近に恩など売った覚えもないし、物を数え計算することに秀でている以外には特別なものはない。その俺をなぜ気に入ったのかは知らない。知らないからもどかしいし、腹が立つし、気に入らない。明確でないものは気持ちが悪い。

「子供のように無視などせずに、世間話をするまではせずとも、会釈くらいはしておきましょう」

 自分が矛盾したことを考えているのはわかっている。
 左近が俺を気に入る気に入らないの尺度で考えているわけでもないことも知っている。
 すべて俺の妄想にしかすぎないこともよく理解している。
 言葉はあまりに無力であるが、いざ無言となると余計に無力になってしまうということが今回わかった。黙っていては左近になにも伝わらない。左近は俺によく説教するが、その傍らに佇む本心が見えない。
 総合して深読みをすると、「家康が気に入らないのならば言葉にし、明確に本人に伝え改善するように言え。無視などしても反感を買うだけだ」ということを俺に伝えるために、ひとりで大きな演劇でもしているのだろうか。やはり考えすぎだろうか。
 おねね様に平素「生きにくい子」と口を酸っぱくして言われていることを思い出した。ならば、タヌキは「生きやすい人間」なのだろうか。それとも左近か、おねね様自身か、秀吉様か。生きやすい人間なんて誰一人いるはずがない。
 そうだ、世界は生きにくく出来ているのだ。
 ならば死は甘美なものであるか? 生きにくく出来ている世界に生きることは苦痛であろう。だから死は甘美なものでなくてはならないはずだ。だが、死というものは一般に恐怖を伴うものである。いや、俺は死を知らない。死に瀕するほどの地に立ったこともない。死を恐怖と考えるのは間違いで、死はやはり芳香漂う優しい手なのかもしれない。
 そうは考えても、俺は死を望まない。生きにくいと言えど、俺はここでもがき、豊臣家の磐石が築かれる様を知らなくてはならないのだ。
 そして、もし左近が俺の考えるとおり俺に尽くすことが目的なのならば、きっと未来におこるであろうタヌキとの戦に散ることも厭わないに違いない。だが、万一にもありえない話だが、俺がタヌキに屈し、彼奴の犬と成り下がったとしたならばこの男はどういった行動を取るのだろうか。俺を見限るか。そうした場合、左近は死ぬことはない。俺を見限ろうと見限らずとも、すぐに死ぬことはまずあるまい。
 この男の生死は、ある意味で俺が握っている。

「左近、俺は非常に恵まれていると思わないか」
「はい?」
「殺したいほど憎い人間と、殺してあげたいほど愛しい人間がいる」

 俺は義という膜に覆われている人格以前に、ただの人間なのである。
 それはひどく温い悲劇であり、激情的な喜劇でもある。




イデオロギー的ルサンチマン





12/16
shina
「霞狩」塵芥朧さまへ、二千打おめでとうとお祝いありがとうの文章でした。
あの、もうしわけないな、という気持ちが非常に強くて本当に申し訳ない出来上がりでアレ?と首をかしげてばかりです。
リクは「優しい悲劇、悲しい喜劇」あるいは「シュールにトリック」でした。最初は「シュールにトリックの結果が優しい悲劇、悲しい喜劇」にしようと思ったのですが頭が偏屈な常識に囚われてシュルレアリスムになれなかったので、おもちゃ箱をひっくり返したような無秩序でぐちゃぐちゃで理論皆無の話にする予定が本当にただぐちゃぐちゃな話になりました。 わ、言い訳長い!
素敵なお祝い文をいただいたのに、こんなにしょうもないお話を返すなんて恩を仇で返しすぎて本当にお恥ずかしいかぎりです。
ではでは、本当にありがとうございました!