エクリチュール





「だから、信じられないものは信じられない」
「ほう、なぜ信じられないのかな?」
「目に見えないからだ」


 つい、と目の前の男から顔をそらしたのは明るい髪色の石田三成である。齢はもう二十をとっくに過ぎて三十にさしかかろうかというところなのだが、所作が子供じみている。あからさまに不機嫌な顔をして目の前の男を困らせていた。


「目に見えない?」


 三成の前で、言葉尻を捕らえたと言わんばかりに膝を進めたのは直江兼続だ。白く長い兜は被っていない。顔にかかる美しい緑の黒髪を顴骨の一関節下ほどで切りそろえ、残りは後頭部に結わえている清潔感のある姿だった。
 怪しげな光をはべらせた兼続の目に、三成はたじろいだ。そのまま、窮鼠猫を噛む、と言った具合におぼつかない言葉を繰り出した。


「そうだ。義は目に見えない。なぜならば観念だからだ。そんなものは信じられないし、信じると足元を掬われてしまいそうだ」
「信じられません、か」


 余裕綽々と笑みを浮かべた兼続に、脳みそを搾り出すように答えた三成だったが、襖の向こうで影を背負った青年の姿を見つけるなり喉をつまらせた。
 青年は頭を下げてから部屋に入り、丁寧に襖を閉める。青年の名を真田幸村という。彼が影を背負った理由が容易に察することができたのか、三成は気まずそうに咳払いをした。
 兼続と三成の間に(とはいっても割るように入ったのではなく、添えるように)落ち着いた幸村はどうしたものかと苦笑いを浮かべた。


「いや、すまない。義を否定しているのではなくて、信じられないということだ。義と言ってくれた幸村には悪いのだが、目に見えないし、実利もない。それならば屋下に屋を架すほうがよほど効果的ではないか」
「……かもしれませぬ」
「なんと。二人は義を信じぬのか」


 真摯な態度で語る三成に、幸村は苦笑を深め俯いた。兼続は大袈裟と言ってもいいほどに驚いてみせ、二人の顔を見比べた。
 三成の言い分は、同じ実利がないのならば義などというものを追いかけるよりも屋根の下に屋根を築く、そういった万全の体制のほうがよっぽどに安全で安心だということだった。


「恥を忍んで申し上げますれば、私も義というもの、未だおぼつかない空中の楼閣のようなものです。あのときは、思いつくままにふと音に下してしまい、情けないものです」
「ほら、みろ。兼続、義はこんなにも不安定だ」
「お前がなにを得意げに言う。ならばお前の言う『利』や『理』、これらだって目に見えないではないか。そのように、もっと感覚的に考えるのだ」
「見える」


 二対一になったとしても、兼続は弱らなかった。幸村の登場で突きつける瞬間を逃したそれを、自信たっぷりに言った。しかし三成は間断なく否定した。意外そうに目を見開いたのはなにも兼続だけではない。幸村も一緒だった。
 二人の感覚からすれば、利や理もまた義のように観念的でつかみどころのないものであった。それを三成は違うと断じたのだ。
 三成は矢継ぎ早ともいえる調子で続ける。


「『利』は簡単だ。目先の論功行賞に囚われる気持ちだ。気持ちとはいえ、これらはこの世の男児ほとんどが体現している。『理』は真実だ。真実は目に見えた全てのものである。それが理というものだ」
「理に詰んだ話だ」


 幸村と同じように苦笑した兼続は揶揄したが、三成は真剣そのものだった。揶揄した兼続は三成の一本気な態度にわざとらしいため息をついてみせる。


「ならばその調子で義も説明すればよかろうに」
「信じていないものを説明できるわけがなかろう。ならば、そういうお前が義の説明をしてみろ」
「おう、いいとも。義とは各々の心にある正義の心だ。義は縛られるものではない。皆違うものだ」
「それが信じられんというのだ」


 あぐらを掻いた内腿に肘をつき、ぶすくれた顔で三成は(兼続の真似をしたのか)大きなため息をつく。兼続は兼続で、なにがわからないのかが理解できていないらしい。珍獣でも見るような目つきで三成と幸村を見た。
 兼続の視線が幸村に移ったのを見て、三成も同じように幸村を見る。年長の二人から無言で見つめられ、幸村を顔を赤らめながら俯く。期待されるような答えも持っていないし、二人の言っていることの正確な的すら正しいか自信がないようだ。それでも、なにか言わずにはいられなかったのだろう。もぞもぞと手遊びをしながらも、二人の顔を交互に見比べながら喋りはじめた。


「おそらく、三成殿がわからないのは『個人の主観によって変わる』という点ではないでしょうか」
「というと?」


 続きを促され、幸村は幾分か落ち着きを得た様子で続ける。


「はい。おそらく、三成殿にとっての義――正義とは一つしかないのだと思います。兼続殿のおっしゃる通りならば、正義がたくさんになってしまいます。そうすると、正しいことというものが霞んで、三成殿の意義すら曖昧なものになってしまう……というところでは、と」
「ふむ……。俺の意義とは具体的に?」
「奉行職では、と存じます。いや、奉行職に限定するわけではありません。最近であるならば、異国の地にて奮戦を続ける方々が軍律に違反した際に、仔細を秀吉様にお伝えするという行為です」
「なるほど」


 三成が言うよりも兼続が先に膝を打った。
 双方が自分の説明で理解してくれたということに満足した幸村は、頬を染めてにこにこと笑みを浮かべている。その笑顔にほだされたのか、三成は開きかけた口を閉じ、兼続に目をやった。


「なるほどなるほど。確かに、私の説明ではそうとも取れるな。つまり、誰もが正義になってしまう。勝てば官軍、負ければ賊軍も成り立つと。真の正義とは常に官軍であり、負けたからとて賊にはならぬ。いや、正義は負けない、か」
「なにを自己完結しているか知らないが、もっとわかりやすく言え」
「自分のことなのにわからないのか」
「うるさい」


 へそを曲げてしまった三成にも臆さず、兼続は胸を張って答えた。


「正義とは、つまり、義だ」
「お前、腹を切れ」
「軽々しく言うことではない」
「ふん」


 機嫌が斜めになってしまった三成は聞く耳を持たない。そう知っているのか兼続も深く諌めはしなかった。三成が本当に言うことを聞くのは、彼が神のごとく崇める秀吉と、彼の半身とも言うべき重臣の島左近や舞兵庫くらいなものだった。兼続や幸村は友であっても、言うことすべてを鵜呑みにするほどに盲信する対象ではなかった(飽くまでも『盲信』であり、自らが納得できればそれを柔軟に取り込むこともする)。
 ただ、この場合は機嫌が悪いということもあって自分の発言が発端であろうと彼は鼻を鳴らすだけである。


「お前の言うことは要領を得ぬ。幸村、兼続の話でわかったことを要約しろ」
「……つまり、義とは、各々の心にある正義であると。その正義は誰にも共通しているもの、でしょうか」
「嘘っぱちだな。正義は誰もが持っているものではない。江戸の狸を見てみろ」
「ああ、もう! だから義は理屈ではないのだよ。自分の正義で……」
「それはとんでもない怠慢だな、兼続よ」
「怠慢だと?」


 三成の物言いに兼続は途端に眉間にしわをよせた。すわ、取っ組み合いか、と幸村は危惧したけれど、存外に兼続は怒り出さず、むしろ笑い飛ばした。そして今度は笑い飛ばされた三成が剣呑な空気を作り、また幸村は胃が引き締まった。
 挟まれた幸村が脂汗をひり出している間にも、三成と兼続は問答を繰り返していた。


「なにが怠慢なのだね。私が義を怠っているとでも言うのか」
「そうだ、怠慢だ。『義は考えるのではなく、感じるものだ』これが甘えだ。考えることを放擲して、感覚に逃げているのだよ。気に入らん、気に入らんな」
「三成こそ甘えではないか。付け上がるな」
「なんだと」
「あいなし、その向上心の無いことこそ怠慢であると気付かぬか。お前の言うことには『俺にわかるように義を説明できないとは、真摯に考えていない怠慢である』だ。そのような自分勝手、私の義の心は許さない」
「言ってくれる。だが事実ではないか。お前の説明で俺も幸村も理解できない。俺は当然のこと、幸村も秀吉様に愛されたほどの才の持ち主であるぞ。その幸村が理解できないのだ。俺と幸村が理解できなければ衆愚は無論義など信ずることはできぬ。であるから、自分の心のみで満足しているお前が悪い」
「なんと! 私がこれほど心を粉に砕き説明したというのに、理解しないか。おろか、多くの人間を愚と見下すか。三成、それは一体どういう了見だ。あぐらなど掻かず、そこに正座しろ」
「うるさい」


 柳眉を逆立て、肩を怒らせながら早口にまくしたてる兼続の言葉を聞き流し、正座をするどころかごろりとそこに寝転がってしまった三成を歯がゆい気持ちで見つめるのは兼続だけではない。幸村もそうだった。
 これが敵を作りやすい三成の悪癖でもあった。倨傲なほどに自分の意見に絶対の自信を持ち、聞くに値しないと断ずれば子供じみた反抗に出る。また、頭が賢しすぎるせいか、やや他人を見下しがちになる嫌いもある。兼続もそれを知っていたはずであったが、今度ばかりは苦笑で流せなかったようだ。
 聞く耳を持たない三成に兼続は大声であれこれと言うが、どれも無駄に終わっている。けれども兼続は怒鳴らないではいられなかった。


「二人とも、お静かに」


 年長二人の口論におどおどと慌てるばかりの幸村は、意を決して大音声でその場を制した。
 静かに、と言いながら一番大きな声を出したのは幸村だったのだが、そんな野暮なことを言える立場ではなかった二人は居心地が悪そうに居住まいを正した。


「義がどうとか、そんなことで言い争いをすることが不義だと思わないのですか、兼続殿」
「うむ……、それも、そうだったな……」
「三成殿も。義というものは非常に難しいものであるということは、話を聞いていてわかりますでしょう。いくら兼続殿とて、そう簡単に結論を出せるものではないとわからないわけでもありますまい。それを、まるで重箱の隅を楊枝でほじくるようなことを言って。兼続殿が怒るのも無理もありません」
「……でも、結局、義なんてものがあるのか? それを有耶無耶に……」
「あります」


 もはや幸村には年長二人に対する畏怖の念はない。ただ、二人の言い争いに対し、腹に据えるものがわずかながらにあったのだろう。鼻息も荒く、二人を一瞥した。


「火の無いところに煙は立ちません。義というものが言葉として存在するのですから、それはあるに違いありません。ただそれは難しいもので、誰もがうまく別の言葉に置き換えて説明ができないだけです。だから、考えるのではなく感じるのだ、としか言えないのです」
「そうだ、そうだ。幸村の言うとおり」
「……」


 やはり納得のいく答えではなかったのか、三成は唇をとがらせて押し黙った。なにかを言おうとしたのだが、幸村の眼力に黙らざるを得なかったのだ。
 やがて、降参するように手を上げた三成は、至って真面目ぶった口調で言う。


「わかった。わかった。二人にそう言われてしまったのならばきっとそうなのだろう。兼続に難癖をつけて俺も悪かった」
「私も悪いと言いたげな口ぶりだな」
「当然です。大人の対応をできなかったのですから」
「義は存在する。信じられるかと言われれば答えは出ていない。だから、また三人でこうして語り合う機会が訪れるまでには答えを探しておこう」


 それは、遠まわしな三成の誘いだった。
 豊家の未来が安泰とも言えぬ状況の昨今、こうして三人が集まり義について語り合うなどという時間は本来ならばありえなかった。そして、これからもそのような時間はまず取れない。豊家の未来が安泰と言っても過言ではなくなったとき、つまり、豊家を脅かす存在がいなくなったときに、またこうして語り合おうということだった。
 その婉曲な誘いに気付いた兼続と幸村は、顔を見合わせて微笑んだ。


「そうだな。それがいい。その頃には、やんごとなき仲の三成と島殿も進展していような」


 兼続の何気ない一言に、三成は途端に眦を吊り上げ、幸村は笑顔のまま首をかしげる。同時に、襖の向こうで諌めるような咳払いがした。


「おや、島殿。いらしたのか。そちらは寒いであろう。中へ入ったらどうだ」
「お前、俺の許可もなく……」
「なになに。私と幸村は帰らせていただくよ。三成も忙しい中、時間を作ってくれたのだがさすがにな」
「あ、はい、先ほどは偉そうなことを申して申し訳ありませんでした」


 慌てて手をついて頭をさげる幸村に、兼続はからからと笑って手を振った。


「気にするな。まるで幸村のほうが年長者のようだった。さあ、帰ろう帰ろう。これからはやんごとなき二人の時間であるぞ」
「はあ。そうですか」
「お前な」
「アデューだな!」


 このままでは言い逃げされてしまう、と、三成は口を開くが、兼続はそそくさと立ち上がり、襖を開けた幸村の背を押して出て行ってしまった。
 兼続の間の抜けた言葉に、三成は眉間で波を打つしわを指先で揉み、這うようなため息をついた。
 ひょっこりと中を覗くべく顔を見せた左近に気付き、許可を出す。左近は微笑みながらも首をかしげながら、ゆったりと三成の目前に座した。


「なんですかねえ、あの、最後のお言葉は」
「フランシアだか、そんな名前の国の言葉だ。あいつはなんでもおもしろがって使いたがる。意味は知らんが、なんだか腹の立つ響きだった」
「いやはや、日本と全く違う響きの言葉ですな。左近のように年も取ると、耳障りなほどだ」


 暗に、三成もまるで年寄りくさいとでも言いたげの左近に噛み付く気力も萎えていた三成は、ただため息を繰り返すばかりだ。それでなくても兼続に『やんごとなき仲』などとからかわれて、微妙にきまずい空気があるというのだ。そんなことは小事にすぎなかった。
 左近とて、それは誤魔化しの軽口であることは自覚していた。けれどそれに三成が乗らないのだから、浮いてしまっている。


「しかし、真田殿も言いますねえ」
「ああ。一喝されてしまった。実は、俺や兼続なんかよりもずっと大人だな」
「そうですねえ。義がどうと、あんなに熱心におっしゃって……」


 思い出したのか、左近は笑みを深めた。
 実は、襖の向こうにいたとき、左近には三人の話がよく聞こえていた。三成と兼続の口論も微笑ましいものだと笑いを噛み殺すことに苦労していたのだ。もちろん、それを止める気なんてなくて、どういって落着するのかと楽しみにしていたら、幸村の鶴の一声だ。
 意外ではあったけれども、どうにか丸く収まり、左近も感心していたのだ。


「左近は、義というものをどう思う」
「信じられませんか?」
「信じられないな」
「自覚していないだけで、殿はもう義をお持ちになられていると、左近は存じております」


 左近の答えに、三成は渋面で首をかしげるばかりだった。










 兼続は目を覚まし、見慣れない(と感じる)天井に首を傾げた。木目が今までと違い、大ぶりである。また色も違う。落ち着く色合いだった深い色は、どうにも初々しい明るめな色だ。
 起き上がり部屋を見渡すと、どうにも狭い。


(そうか。夢か)


 遠い過去の話だった。
 陸奥会津百二十万石だった上杉は、関ヶ原の敗戦の折、家康に陳謝し許され、出羽米沢三十万石に移封、減封となった。見慣れない天井はそのためである。
 兼続は唐突にその夢を見た理由がわからないでもなかった。近日に大坂で豊臣残党を征伐する戦に参陣することになっている。完全に封印するしかなかったその思いは、捌け口を探して迷い続けていたのだろう。今日になってようやく出口を見つけ、噴出した。
 しばらく、兼続は動けないままであった。


(机上の空論、机上の空論だ。所詮、義という言葉もただの文字にしかすぎなかった。これでは三成を怒れない。私は確かに義を明確に意識しようとしていなかった。もし、私が義というものを確立して本当に自信があったのならば、私はここにいないはずだ。なんだ、幸村のほうがよほど、説明役に適していた)


 無論、三人で再び義について語らう日は来なかった。むしろ、兼続はその約束を今の今まで、およそ十六年近く(意図的に)忘れていた。


(なぜ、今頃こんなことを。忘れたままでいられれば、幸せだった。いや、私が幸せを得るなど許されざるということか。さもありなん)


 緩慢な動作で起き上がった兼続は、頭を掻いて、大きく伸びをした。


(いいだろう、いいだろう。それも一つだ。だからこそ今の私がいる。今の私が貫くべき義があるはずだ。あの日の三成ではないが、義なんて信じることができるだろうか、と苦悩していた日もあった。けれど、やはり考えるものではない。考えすぎてもよくない。いいんだ、今の私は、今の、新しい義を貫く。腑抜けたままでは三成にも、幸村にも、それこそ合わせる顔がない。自信を、自身を持て、直江兼続)


 背筋を伸ばし、胸を張って兼続は立ち上がった(そうすることで彼は義勢を示した)。


(義に生き、義に殉ずる。あの日と形は違えど、それを成せばいい)


 それから二度にわたり大坂の役は続き、大坂城は落城する。
 その五年後、兼続は穏やかな吐息と共に宙に鎔けた。



「おお、二十年ぶりか。ようやく役者が揃った。あの日の続きだがな、義というもの、やはり難しいな」








11/18
shina
小鹿さまへ捧げる、三万、四万打のお祝いです!まず、遅くなり申し訳ありませんでした……!
そしてこの、なんとも、どこからなにを言ったらいいのかわからないような長い文章になってしまい申し訳ありません。
せっかく私も四万打のお祝いをいただいたというのに、尽力むなしく……。
いやいや、言い訳などつのるものではありませんでした。
ただ一つ、「勝てば官軍」って幕末あたりの言葉でしたよね……。代替の言葉がなく、恥を忍んで使わせていただきましたごめんなさい。
本当におめでとうございました!