耳と尾さえなければ、なにも変わらない朝がやってくる。
俺はこの世界に関しては心底無知である。獣の耳も尾もなかった世界と概要は変わらないのだが、耳と尾が違う(わかりきっている)。重大であるが、なんの解決にもならない違いだという認識は間違っていないだろう。
そして、これは単なる願望でしかないかもしれないが、細かな部分で食い違っているところがある。本当に些細な違いではあるが、俺の獣の属性から猫舌であるだとか(そもそも動物は、普段加熱したものを食べないのだが)、左近の意味のわからない言動。
これだけで判断するのは愚かかもしれない。だが、確実にこの世界とは別に、俺がいた世界があるはずだ。いや、そう信じなくては俺の心臓が持たない。だが、確証のない『信じる』などなんの力にもならない。だから俺は、確乎たる違いを見つけ出し、そしてひっくり返ってしまった皿を元に戻す必要があるのだ。
「左近、俺の心配はもう良い。だいぶ良くなった。心配をかけたな」
「いーえいーえ。ここのところ忙しいですからな」
そういえば、この獣の耳や尾の世界に来る前も、連日連夜働き通しであった。その内容までもが同じかどうかはわからぬが、同じように忙しかったという事実を得る。
貪欲なまでに、事実を求める。これだけでは足りない。そこで手っ取り早く、カマをかけることにした。
「……まあ、これからも忙しいままだろうな」
「そうでしょうねえ。朝鮮出兵で、兵も民も疲弊しきっています。殿の腕の見せ所……なんですが、頑張りすぎでしょう」
同じだ。これも、同じだ。以前と変わらない時勢。
少なくとも、帰り方がわからない限りなるべく同じのほうが動きやすいのだが、不安になってしまう。本当に、以前の世界などというものがあったのか、と。やはり俺だけが耳も尾も見えていなかっただけで、突然に見えるようになってしまっただけなのか。それとも、この獣の世界で俺が見ていた、単なる夢なのだろうか。
……いいや、あれが夢であったはずがない。あの世界で俺は、確かに感情を持ち、色を持ち、肉体を持ち、自らの足と意思で動いていたのだ。そこで多くの経験を積んで、俺という存在がいるのだ。この世界の俺も全く同じような経験をして、同じような人間に育ったのか?
だが、俺はひとりなのだ(この世界の俺なんぞ認めない。少なくとも、俺がこの世界に生きることは誰も歓迎しないのだ)。
「頑張るに過ぎるも足りんもない。ただ目の前の事象を消化するだけだ」
「……そうでしょうかねえ?」
「なにがおかしい?」
「いえ、なんだか、いつもの殿と違うな、と思っただけですよ」
ふむ。
まったく同じ人間なぞ存在しないのだ。どれほど似通った環境で育てられようが、どういうわけか同じ人間は造れないのだ。いくら俺と同じ環境で生き、俺と同じ顔をしていようと俺とは違う生き物。左近もまた然り。
しかし、取り巻く状況が同じなのは動きやすくていいのだが、性格の問題は解決しにくい。俺は世界一嘘をつくのがへたくそで、嫌いな人間に愛想笑いをすることもできんほどの正直者だ。
この世界は別物だ。これだけは、間違いない。
「殿らしくないお言葉だ」
「らしい? 俺らしいとは具体的にどういうことだ。それはお前の主観の偏った意見であろう」
「おや、これは手厳しい」
「ふん。お前に、わかったようなことを言われたくないだけだ」
この左近は俺の知っている左近ではない。だからこの左近になにもかも見透かしたような言葉を紡がれるのは心外だ。俺はお前の知っている石田三成ではなく、まったく別の存在である。
これを告げたところで誰が信じるだろうか。この左近はどんな反応をするだろうか。笑って取り合わないだろうか、それとも真剣に取り合ってくれるのだろうか。しかし、この左近にはどんな行動を取ろうが俺には興味が無い。島左近という銘柄が欲しいのではなく、俺の知っている左近だけ存在していればいい。この左近にとって必要な石田三成でない以上、必要以上に近寄る意味はない。
ぴくり、と左近の眉間にしわが寄る。
もしや、俺の発言に気を悪くしたのだろうか。よく左近に言われていた。発言するまえに少し言葉を見直してみろ、と。俺の言葉は厳しすぎるのだと。おそらく、今の俺の言葉には、気を悪くする要素が存分に含まれていた。
「尾も耳もしょんぼりしていますよ。なにを無理してらっしゃるか存じ上げませんが、殿はお一人の身ではありませんことをお忘れなきように」
「うあっ」
ぴん、と耳をはじかれる。痛みに近いこそばゆさが気持ち悪く、間の抜けた声が漏れた。警戒するように、耳はもぞもぞと動く。
俺の反応を見て笑った左近は静かに部屋を出て行った。左近のいなくなった部屋は随分静かのような気がする。あれは俺の知っている左近ではなく、俺もあの左近が知っている石田三成ではない。相互の信頼関係は成立しないはずだ。
しかし、本質は近いものなのだろう。ただ、わずかなズレがあるだけなのだ。
尾がはたはたと揺れていることに気付き、ようやく自分の感情に気がついた。
差異
08/27