「殿、殿?」


ゆらりと蜃気楼のように浮かぶ歪んだなにかが視界いっぱいにひろがった。それを人の顔だと認識するのに少しだけ時間がかかり、それをよく知った人間の顔だと知るのにもう少し時間がかかった。
状況を把握するのはそれからの作業だった。左近が俺を見下ろしている。それはなぜか。俺が寝ているからだ。なぜ俺が寝ているか。俺が花瓶を割った後、急に眠くなったからだ。なぜ花瓶を割ったか。それが『答え』だと知ったから。なんの答えか。……。


「さこん?」
「ああ、良かった。いきなり花瓶が割れたと思ったら倒れるんですもん。びっくりしましたよ」


いきなり花瓶が割れた?
違う、俺が花瓶を割った。……しかし『あの世界の俺』はそれをしていなかったのならば、この世界とあの世界が一瞬でも連動したのならば、勝手に割れる……。
左近の頭上を見る。犬の耳は、ない。


「お前は、左近か……、俺の知っている、左近か?」
「……おや、殿、お戻りになられたのですね」


左近は知っている。『あの世界の俺』はこの世界の左近に真実を告げていた。全ては夢ではなかった。
薄く微笑み、俺を迎える左近。そう、俺の知っている左近だ(そして、きっと俺がどの人間よりも大切にしたいと感じている存在)。


「わっ、殿?」
「……た、ただいま、だ」


俺が自分から抱きつくなど、考えたこともなかったのだろう。左近はためらいがちに俺の背へ腕を回し、柔く抱きしめ返してきた。





開幕







09/01