「左近」
「ぎやああああ!」
「あ……、すまない」
まだこの、獣の耳と尾に慣れていない俺は、たまに人の尾を踏んずけてしまう。今日で五回目だ。
誰もがみんな、こうして絶叫をあげる。踏まれると、足を踏まれる以上に痛いようだ。なるべく気をつけるようにしているのだが、必要以上に近寄るとどうしても踏んでしまう(憎しみなど、ないのだ)。まあ、被虐趣味のある人間は喜んでいたようだが。
そもそも、床につくほど長い尾が悪いのだ。
「もう……気をつけてくださいよ。まだ体調悪いんですか?」
「そんなことはない。ただ、慣れなくてな」
「慣れない? なにがですか?」
「あ、いや。こっちの話だ」
尾がある、耳があることにこの世界の人間は慣れている。だが、俺は慣れていない。
俺は未だにわからない。
尾と耳があるこの世界と、尾もなく、耳も人間のものだった世界が同じものであるか、全く別の存在であるか。わからないのだ。この世界の人間は皆、尾と耳があるのが普通なのだ。誰に聞いても、俺は頭がおかしい人間だとしか思われない。
左近の耳が、ぴこぴこ動いている。俺が何を考えているのか探っているのだろう。尾は喜怒哀楽を如実に表現し、耳は喜怒哀楽のほかに疑問や探求を表現する。この耳と尾があるかぎり、この時代特有の腹の探りあい、というものもあまり意味がないのかもしれない(しかし、やはり同じように、この耳や尾の動きを自在に表現することができる人間もいるのだろうか)。
「なにか変な夢でも見たんですかー? 顔色、悪いですよ」
「そうか?」
「今日は直江殿と真田殿がいらっしゃるって、ずうっと楽しみにしてらっしゃったのに。いざ当日になると体調崩すなんて、子供ですなあ」
本当に子供に接しているようにからからと笑う左近。尾がゆさゆさと揺れている。体が揺れる速度と、尾の速度が妙に合わず、違和感を覚える。
違和感を覚えたのはそれだけではない。なぜか、左近そのものに違和感を覚えた。耳や尾という視覚的な問題ではなく、もっと目に見えない、理解しがたい水準での問題だ。それを明確に言葉にできればいいのだが、まだそこまで具現化した違和感ではない(つまり、『なんとなく』という程度だ)。
いや、それよりも俺が今気にするべきことは左近の発言についてだ。「兼続と幸村が来る」とな。ここの俺はそんな約束をしていたのか。俺はそんな話聞いたこともない。限りなく連動していると思っていた世界が、ほんの少しずつ差異があるということが実感できるのはいい。まったく違う世界の話なのだと割り切ることが可能だからだ。
隠し事をするつもりはない。してもなんの意味がないと思っている。しかし、隠していたことを晒したところで、事態はからまってゆくだけだ。ほどこうと躍起になればなるほど、糸はこんがらがってしまう。だから俺は、この『耳と尾』に関し、飽くまでも隠し通したほうが滞りなく解決策を探すにいたれるのだ。
「そうか。今日、来るのか。確かに、楽しみにしすぎていたかもしれん」
「……嘘、ついてますなあ」
「……ついていないぞ?」
俺は隠し事をするのにあまり向いていない人間だ。特に、左近においては俺の嘘を見破るために生まれてきたと言っても過言でないほど、俺の嘘を見抜く。左近に言わせれば、俺は嘘をつくのが『この世で最も下手』だそうだ。
まさかこの左近も同じように俺の嘘を見抜くために生まれたような男で、ここの俺も同じように嘘をつくのが『この世で最も下手』なのだろうか。
「耳が垂れてる。直江殿と真田殿が来るっていうのに、尾がぴくりともしない。……ま、それ以前にこの話、嘘だったのですがね」
「……うそ、だと?」
「……どうやら、本当にお疲れのようだ。今日も寝ておいてくださいな」
「あ、ああ。すまない……」
静かに部屋を出て行った左近の後ろ姿と、尾を見送った。
あれはカマをかけたのだろうか。俺が異質だと勘付いたのか? それとも本当に俺を心配しているだけなのか?
わからない。こんなに意味がわからない左近は初めてだ。もしや、俺の知っている左近とこの左近は、外見や言動は似ていても、案外中身は全然違うのかもしれんな。今までと同じように接することは、誰であろうと様子見しかあるまい(そもそも、皆、獣くさい。このくささはどうにかならんのか。ノミも多くて不愉快だ)。
しかし兼続や幸村もいるのか。いったい二人はなんの動物の耳と尾を持っているのだろう。いくら人間に獣の耳と尾がついているのが気に食わなくとも、見るだけなら見てみたい。
とりあえず、兼続は……犬? いや、あまり犬っぽくないな。幸村のほうが犬っぽいな。なら兼続は、猫? 猫も微妙だな。しかし、毛がふさふさしていて、耳と尾がある動物なんてそう浮かんでこない。見たところ、皆そういう種類の生き物の耳と尾だから、例外はないだろう。
こんなことを考えるのはいいのだが、いざ二人と会ったときに、今の左近との会話のように食い違いがあったとしたら、俺は冷静に対処できるだろうか。
じりじりと響く虫の鳴き声、暑さによる汗か慄きによる冷や汗なのかわからぬ汗が滴る。そうだ、今は夏か。これから、さらに暑くなる。
ああ、耳がかゆい。耳の根元を掻きながら、行く末に不安を募らせた。
隠蔽
08/27