「……?」


サクッ、という音がするだけで、特別な衝撃はなかった(あ、畳が)。それどころか、左近の能天気な声までしてきた。
どうして、と不可解な気持ちで左近の顔を見上げると、苦虫を噛み潰したような顔で俺を見下ろしている。その表情を見てもやはりどうして、としか思えない。


「そんな顔で見上げんな。……あんたがたとえ『殿』でなかろうと、わずかだがあんたと時を過ごした。あんたが間者じゃないことはわかる」
「で? なぜ俺を殺さなかった。後の禍根となる可能性を考えられないお前ではないはずだ」
「匂いが同じなんだよ」
「匂い?」
「今までも殿の姿を真似た人間が稀に現れた。だが、皆匂いだけは誤魔化せなかった。人にはそれぞれ独特の匂いがある。作り物で真似しても、無駄だ。とても信じられないが、あんたの体は本当に殿の物のようだ」


匂い……、獣であったのは耳や尾だけでなく、鼻もそうだったのか。もしや、紀之介が信じたのもこれが理由なのだろうか。匂いなど特に意識していないかったから全く気付かなかった。


「……左近、すまない」
「なにを感謝してるんですか」
「俺はお前の殿ではない。敬語など使う必要はない」
「たとえ中身が別人だろうと、殿の体に対して偉そうな口叩けるもんですか」


人に信じられるということが、これほどに重く心に影響を与えるものとは思っていなかった。俺は、人の心というものは軽々しく見すぎていた。紀之介や兼続のとき以上に、それを強く実感した。
もし『俺』と『この世界の俺』を取り替える目的が『俺のいた世界』の未来の改竄というものであったとしても(あるいは逆の可能性もあるのだが)、俺はここで多くのことを学んだ。ある意味で感謝すべきことだろう。そのような暴挙に出た『誰か』にも、左近にも、紀之介にも、兼続にも。


「俺は今、元に戻る方法を探している。しかし、仕事は決して怠らない。しかしもし、なにかあった場合、補ってほしい」
「もちろんですよ……。本当に、信じがたいことですが」
「俺も信じがたい。この状況にもだが、左近が信じてくれたことにもだ」


左近はにんまりと笑いながら俺に手を差し伸べた。ごつごつとし、手のひらには無数のまめがある武人の手。俺の指よりも太く、けれど繊細な字を書く手。本当に愛しげに頭を撫でた手。強く抱きしめた腕、肩を掴んだ手。
改まって触れることが出来るだろうか。


「どうしたんですか? ただの握手ですよ」


手が動かない。

俺は改めて人に触れることをなぜ厭う。他意のない手であろうとなぜ戸惑う。
変わらなくてはならない。言葉の上で知っただけでは意味がないのだ。実際に体になじまなくては虚構でしかない。
少しだけ腕が動いた。そしてそのままゆっくりと持ち上げ、左近の手に近づける。
今、手を覆うものはなにもしていない。常に膚の露出を抑えるために極端に着込んでいた。俺の手を守るものはなにもない。直接的(ダイレクト)な触れ合い。とうに潔癖に生きる子供ではないのだ。
指先と指先が、つ、と触れる。途端に左近の手が俺の手を掴み、上下にぶんぶんと振り回した。


「どーぞよろしく」


成功した!
想像していたよりも恐怖など大してなくて、むしろその手の暖かさが心地よいとすら思えた。
他意があったのは相手にではなく、俺だった。俺が恐怖という先入観を持ち接するから恐怖としか思えなかったのだ。他人への拒絶しか俺にはなかった。だからこそ多くの人間に嫌われ、あるいは憎まれた。端から拒絶する人間に、どんな人間が好意を示せるか。


「人の手は、暖かいのだな」
「恐怖は、払拭できます。そう努力すれば」
「ああ……、努力する」


俺が恐怖を抱いたのは、性行為のみのはずだった。しかしいつのまにか、自らに触れる体温すべてを排他し、それで満足していた。俺が愚かなのではなく、そんなものに溺れる他人が愚かなのだと感じていた。
だが、他者の体温は心地よいものだと俺は知った。
感情論は嫌いだし、『そう感じた』という話は信じるに値しない。だが、人間の心を語るのに感情や主観を除くことはできないのだ(これを知ることに、俺は多くの経験を必要とした)。
握手を解いたところで、廊下が妙に騒々しいことに気付く。屋敷の中を走り回るなどどういう神経をしているのか。荒々しく襖が開き、舞兵庫が姿を現した。耳の気が逆立っている。


「しっ、失礼します! ただいま急使が参りましてっ……、秀吉様、御危篤!」





温度







09/01