あの日の俺は紀之介の言うとおり、俺は冷静さを欠きすぎていた。
あれから数日も経ち、ようやくそう思うようになった。秀吉様の容態が今のところ特別な動きを見せていないことも手伝い、少しだけ余裕を持てたのだ。
出し惜しみされる真実に惑わされ、その場で地団駄を踏んでいた。駄々をこねても真実など誰にも与えられないし、労力の無駄遣いにしかならない。俺がすべきことは、冷厳に現実を見据え、真実を探すことからだ。
時間がない、時間がないと焦ってはならない。性急に導いた結論はいつも精細さに欠く。
『意図的な未来の改竄』
陳腐な理由である。無論仮定の域を出ないものであるうえに、現実味を全く帯びていない。しかし、今の状態で考えられる理由がこれくらいしか見当たらない(もしくは、まったくの愉快犯的行為なのかもしれないが)。
俺という人間が、家康と戦を起こす。紀之介の例は妙に生々しかった。
今、秀吉様がお亡くなりになったら、お世継ぎの秀頼様はまだ若い。それにつけ込んで家康が実質的に全てを握る……、あるいは、完全に豊臣を排除しにかかるとも考えられない。そのとき、俺は必ず豊臣を守ろうと立ち上がるだろう。戦を起こすのは俺ではないかもしれない。だが、積極的に家康を糾弾するだろう。このことに俺が深く関わっているのならば、俺を取り替えた場合、未来は大きく変わる可能性がある。
この世界の俺が、そうなってしまった場合にどんな行動をとるのかは未知。『俺』は立ち向かう。この世界の『俺』は?……
「よく聞かされましたよ。『三成とわしは同じ釜の飯を食って育ったのじゃ。わしと三成、正則で秀吉様を守るんじゃー!』ってね」
この言葉に嘘や偽りがなく、俺と清正が本当に心を通わせているのならばこの世界で『この世界の俺』は豊臣を守ろうと団結するだろう。しかし、『俺のいた世界』では清正と俺は仲が悪い。その状態でこの世界の俺は、どうするというのだ?
どうして俺とこの世界の俺を取り替える意味があったのだろうか。今さら、付け焼刃の処置でなにが変わるという? 今さら俺の性格が変わったところで、清正と俺の仲はもはや修復など不可能の境地にあるではないか。
中庭にある池の中を覗き込む。鯉が泳いでいる。鯉には獣の耳はない。人間にしか獣の耳はない。獣の耳があることとないことによる妙な違和感。理性の欠如。よく笑い、よく喋る。俺の世界では男はあまり笑みを見せるものではないし、必要以上に言葉を紡ぐことは美しくない。それが武士道というものだ(明確に義務付けられているわけでもないものだが)。
餌をやる真似をしてみせると、勘違いした鯉は水面で口をパクパクとさせる。餌などないことを知りながらも、俺が餌をやる真似をしている限り鯉は口をパクパクさせる。
これが、今の俺の姿かもしれない。
誰も真実など見せていないのに無いものねだりをし続けて、勘違いをしてあれこれ推測を立てているにすぎない可能性は零ではない。俺はどこかで大きな思い違いをしているとも、していないともすら確定できない状況に、うんざりとしてきた。
「三成様、左近様がお戻りになられましたよ」
大きなため息をこぼしながらも鯉に餌をやるふりを続けているところに、胸をはじくような単語が耳をついた。
左近。忘れていたわけではない。ただ、どの情報をどう処理しなくてはならないのかに混乱して、自然と後回しにしてしまっていた。それに、戻ってくるにはもう少し時間がかかってくるものだとばかり思っていた(これは希望的観測だ)。
「舞兵庫か……、わざわざそれを知らせにきたのか?」
「はい。お帰りを心待ちにされていたようですので。では失礼します。……あ、鯉をがっかりさせるのも程々にされますよう」
「あ、ああ……、すまない」
見られていたようだ。少し恥ずかしく感じもしたが、こんなところでそんな真似をしていたのだ。気付くなというほうが無理な要求かもしれない。
去ってゆく舞兵庫の背をひとしきり眺め、俺はようやく足を踏み出した。変に間を空けてしまったせいか、奇妙な抵抗が働いている。
思いのほか、冷たい視線を投げかけられたならばどうすればいい?
そう、冷や汗をかいたところで俺は疑問に思った。
この世界での俺と左近の関係を白紙に近い状態に戻してしまったことは、もちろん俺の責任だ。この世界の俺はなにも落ち度はないのに、『俺』の自分勝手な理由からそうなったのだから。ならばなぜ、『冷たい視線を投げかけられたならば』などという不安が生まれたか?
『俺』が嫌われたという現実を知るから。
俺は自分に嘘をつくことを平気でやってのける。『左近に限らず、他人に嫌われることに恐怖する弱い自分』ではない。他人に憎まれることに恐怖する感情など、とうに麻痺している。
『大切に思っている人間から嫌われることに恐怖する弱い自分』……これが正解だ。左近からも、兼続からも、紀之介からも、嫌われたいとは思わない。
本当にそれだけであるか?
……知らない。知りたくない。知らない、知りたくない、知らない。
障子を開けると、きっかりと正座をし、(おそらく冷えた)茶をすすっている左近の姿があった。
「随分急な里帰りであったな」
どうしてこういう時ばかり、棘のある言葉を紡いでしまうのだろうか。
毀謗
09/01
(蛇足:サブタイトル『毀謗』は『きぼう』と読みます。非難する、誹謗と同じような意味ですが、『きぼう』と読むのが素敵だな、と思いまして)