紀之介を見送った後、俺はすぐに屋敷の中を歩き回った。これでどんな言い逃れも言い訳も賽の河原だ。いつまでも逃げてはいけない。あれからまだ数日しか経っていないのが、俺でも不思議だ。もう、何日も何日も過ごしたような気になっていた。
俺は、自らが傷つけられる前に他人を傷つけていた。左近を俺の知っている左近ではないという理由で避けていた。しかし、それは無意識のうちの自己防衛だった。『俺』が『この世界の俺』ではないということを知られたときに、左近に避けられてしまうことを恐れていた。やられる前にやれ、など、なんと子供じみた反撃だろうか。この世界の左近など興味がないなんてまったくのでたらめだ。
俺はどんな左近であろうと、いや、本当は、どんな人間にであろうと嫌われることを恐れている。ただ俺は、弱い自分など見たくなかった。浅はかで愚かな虚栄心のために俺は、人を避け続けていた。人を信ずることのできない、俺の弱さが、人に触れることのできない、俺の臆病さが、全ての結論を招いたのだ。
今すぐに全てを矯正できるとは思わない。
だが、努力することは可能なのだ。人に触れようとすることも、人を信じようとすることも。
「左近、左近」
あちこち歩き回るが、左近の影すら見つけることができない。城ほど広いものでもない屋敷なのに掠りもしない。倉庫の中やいろりの中、褥の中も覗いてみるが見つからない。たまたま、少し出かけているだけなのだろうか。俺になにも言わずに?……今の状況ならば、ありうるかもしれない(公私混同だ)。
そこで、水を撒いている舞兵庫の姿を見つけた。水を見たとき、そういえば暑かったな、ということを思い出す。そして舞兵庫の頭上には、熊のようにまるまるとした耳。もはや耳や尾の違いに慣れてきてしまった。
「舞兵庫、左近の姿がないのだが……」
「三成様、これはこれは。左近様でしたら、大和へ向かったようです」
「大和へ? なぜ!」
聞いていない。そんな兆候、おくびにも出していなかった。
舞兵庫が悪いことなど何一つないというのに、つい舞兵庫を責めるような語調になってしまう。この、まるで物語を読んでいるように、怒濤の如くクルクルと変わる状況、まるで合わない間合い、定まらない情況。その苛立ちのとばっちりを受けてしまう舞兵庫はなんという不幸なのか。
「詳しくは私も……、確か、身内の者の体調が優れないとかで……」
「そうか……、すまなかったな。暑い中の水撒き、ご苦労。しかしそれはお前がせずとも……」
「いえいえ、こう暑い日は水を撒いていると涼しくて気持ちいいのですよ。三成様も水、いりますか? とても冷たくて気持ちいいですよ」
ひしゃくから飛び出す飛沫を眺める。一瞬だけ、自由になる。そして地に引き寄せられる。なぜ、なにもかもが地に向かうようにできているのだろうか。どうして、地についていなければならないのだろうか。この法則がある限り、自由はありうるのか。
この世界と、俺がいた世界……。この、地に向かう法則すら凌駕している。俺は地に足がついていることを不服とは思わない。だが、本来在るべき場所に存在できないことは不服だ。俺は、俺がいた世界で地に足をつき、歩きたい。この世界ではなくて、本来あるべき場所で、歩きたい。
「……もう日も暮れる。あまり遊びすぎるな」
「子供じゃありませんから……」
舞兵庫の照れ笑いを見納める。
他のものには特別目もやらずに自室へ戻り、左近が帰ってくるのにどれほど時間が必要か考える。いや、あちらにどれほど滞在するかもわからない。身内の者というのが誰だかは知らぬが……、容態の変化によっては遅くなりうる。
とことん、顔を合わせる気がないのだろうか。怒っている、のだろうか。愛想をつかした……可能性もある。俺に都合よく考えれば、俺の顔を見るとどうにも感情を抑制できないから避けている……のだが、それほどむしのいい話を考えられる俺の神経を疑いたい。しかし、この理由ならば俺が面と向かって話すことができれば、修復は可能だ。
信じるかどうかは、知らん。
左近が戻ってくるまで少し日がある。その間に慶次に会うことにするか。紀之介が会ってみろと言っていた。もはや俺以外にこの世界へ来てしまった人間の存在の可能性に絶望しているのだが、最後の一人まで諦めることは出来ん。
明日、時間を作ろう。
……秀吉様が倒れられて、中枢は麻痺している。それを正さねばならない。その合間にでも、だ。
もはや俺に躊躇している時間はない。急がねばならん。
秀吉様が危篤に陥ってしまわれる。それまでに全てを元に戻さなくてはならない。『俺』のためにも『この世界の俺』のためにも。
言葉にしなければ、不安になる癖がまた姿を現す。
暗愁
09/01