絶望した。獣の世界に絶望した。ああ絶望した。
獣は好きだ。こんなことを言ったら誰にどんな顔をされるか想像がつくので言わないが、あいつらは人間よりもずっと素直で、愛らしい。むしろ俺は、人間があまり好きではないのかもしれない。
その人間に、獣の耳と尾がある世界だと。なんと気色の悪い世界だ。
……俺はなんの他意もなく、『世界』と言っているが、ここは、俺が昨日までいたはずの、普通の人間の世界と違う世界であるのだろうか。平行に展開してゆく、二つの世界が存在したとして、突然、なにかをきっかけに入れ替わってしまったのかもしれない。
それとも、もともと世界はひとつで、この世界はこういう世界だったのか?
俺が見えていなかっただけで、本当は、獣の耳も、尾も、誰もが持っていたのだろうか。
『さ、さこ! 俺の耳が変な形に……、尾がなんか、ある!』
『ええ? 昨日と変わりませんよ? それに尾なんて、誰でもあるじゃないですか。まだ寝ぼけているんですかあ?』
そんな会話を思い出して、俺はまた絶望に浸る。
どうやら気を失ってしまったらしい俺が(そんなにヤワな人間のつもりはなかったのだが)目を覚ましたとき、左近にそう訴えたのだ。だが、この通り。
左近の言うことには、俺は遅くとも『昨日には』すでに耳や尾がある。そして、誰もが尾を持っている(おそらく耳も)。そしてその落ち着きぶりから、昨日今日に耳や尾が生えたというわけではなく、ずっと前から、もしかしたら、産まれた時からあるのかもしれない。
世界はひとつか? 尾のある世界とない世界で、個人の身体的特徴以外に差異はない。秀吉様の天下統一も同じ。左近を召抱えたのも同じ。秀吉様に見出されたことも同じ。女中が昨日、皿を一枚割ったことも同じ。確認はしていないが、幸村や兼続と出会ったこともきっと同じ。義について説かれたこともきっと同じ。
なにが違うか。
俺だけが、違う。
俺だけがこの世界から乖離している。異質な存在であるのだ。尾があり、獣の耳を持つ。だが、それを知らない俺がいる。周りの人間を見る限り、皆この状況になんの疑問も抱いている様子はなかった。
俺だけ。
俺だけが、知らない。俺だけがこの世界に背を向けている。
獣の耳も尾もない世界は、どうなっている?
意味がわからん。まったくわからん。わかりたくもない。
寝転がって考えている間も、ぱたぱたと揺れる尾が緊張感をかき消す。どれほど俺が深刻なことを考えに考えつくしても、この尾と耳が、どうにもあほの子のような雰囲気を作ってしまうのだ。
「とのー、お加減いかがですかー? 粥を作らせたのですが、食べられますか?」
障子の向こうで、左近が俺を呼んでいる。
影には耳があり、左右に揺れる尾が写っている。夢ではない。俺の尾も揺れている。触れれば耳もある。
「入れ」
「失礼します、っと」
障子が開くと、左近の姿、耳、尾が目に入る。それが異常ではないのだ。それが、普通のことなのだ。少なくとも、ここでは。
改めて見てみると、おもしろいものだ。意思に連動している尾、人間の感情をわかりやすく表してくれている。今、左近の尾は激しく左右に揺れている。バタバタと。多分、嬉しい、とかいう感情なのだろう(なにが嬉しいのかさっぱりだが、嬉しいと思ってくれているのなら、それでいい)。
「あーもう、体調悪いんでしたら、掛け物をかけてくださいよ。ああ、いいです俺がやりますから」
ばたばた。ばたばた。
弱っている俺が嬉しいのか? それとも、俺の世話をするのが楽しいのか?
「あーあーあーあー、粥はちょっと待ってください。熱いですから」
「……熱いくらい、別に平気だ」
「え? 殿って、猫舌でしょう?」
「……え?」
食い違いがひとつ、起こっていた。
俺の耳や尾は狐のものだ。それは存分に確認したからよくわかっている。たしか、狐は大きな分類では猫のうちにはいる、と聞いたことがある。そういう関係なのだろうか。
ああ、無性に山へゆきたい。
同一
08/23