先日、秀吉様がお倒れになった。
膚は黒ずみ、鳥の餌ほどにしか食事も摂られない。今はまだ、会話をすることができる。だが、これ以上衰弱してしまってはそれもままならなくなる。あちこちから有能と評判される医師がやってくるが、誰もが首を横に振るばかりで、気休め程度の薬を置いてゆく。
……人は、死ぬ生き物なのだ。たとえ獣の耳や尾があろうとも、獣も死ぬ。その耳や尾が特別な力を持っているわけでもなく、病気に対する強い力を持っていることもない。生き物はただただ、死を待つばかりの受動的な存在なのだ。それが故意のものであるか、自然のものであるかが違うだけだ。自然のことなのだ。秀吉様が、ご病気を患うことも。そして、死に向かうだけであることも。
獣の、耳と尾……。
俺は獣の耳も、尾もない世界からこの世界へ来た。今まで無条件に『この世界』と『俺のいた世界』が並行に存在すると考えていたが、果たして本当にそうなのであろうか。時間の流れは、寸分もずれていないだろうか。もし、ずれているのならばどちらが早く、どちらが遅い? それともやはり並行しているのだろうか。だとしたら、『俺のいた世界』でも同じように、秀吉様が、お倒れに……?
この世界の秀吉様は確かに秀吉様であるが、同じ存在ではない。だからといって全く心配していないわけではない。ただ、俺のお世話になった秀吉様が、俺の知らないところで倒れられているという可能性に、居ても立ってもいられない。もし『俺のいた世界』に『この世界の俺』がいるのだとしたら、早急に元に戻さなくてはならない。
たしかに秀吉様ではある。だが、確実に違う存在なのだ。互いに、知らない秀吉様を目の前にして、その生と死を実感することが本当に可能なのだろうか。
……これは俺の一種の病気かもしれん。ずっと、幼い頃から持ち続けた病。なんでもかんでも言葉で正当化しようとしてしまう、言い訳。
御託はいいのだ。秀吉様の容態が急変してしまわぬうちに、どうにかして元の世界へ戻らねばならぬ。……そして、元に戻る前に、左近に真実を伝えねば、ならぬ。
しかし、どうにかしてどうにかしてと簡単に言うが、その元へ戻る方法がさっぱりわからない。今まで本気で考えていなかったというわけではない。その状態でも解決の糸口がさっぱり見つからないのだから、焦っても良い結論が出るとは思えない。
「佐吉、そんなに険しい顔をするでないよ」
何から考えればいいのか考え始めたとき、少し離れた場所から声が飛んできた。すぐに振り返ると門に背を預け、顔を白い布で覆った懐かしい立ち姿が目に入る。
「紀之介」
「お前がそんな顔をしていては、周りも不安になってしまうよ」
紀之介はその白い布の下で穏やかな笑みを浮かべているのだろう。物腰の柔らかい言葉がそれを如実に語っている。白い布にはちょうど耳用の穴が開いている。紀之介の動物の耳は長く、黒い長毛に覆われ、垂れている。そういえば、たまに耳が垂れている犬を見かける。
「不安になるな、なんて無茶だろうがね。悲観しすぎてはいけないよ」
「……別に、悲観しすぎているつもりなどない」
「わふっ」
ふわり、とそよ風が俺の頬を撫でる。紀之介の耳がハタリと揺れ、風を起こしたらしい。その瞬間を目撃していたのだが、一瞬、なぜ風が起こったのかまったく理解できなかった(耳にこういう使い方があったなんて)。
「わふっ、わふっ」
「ちょっ、紀之介……」
「……うん。そう、そういう顔」
「は?」
犬の鳴きまねをしながらパタパタと耳で風を起こした紀之介は、何度かそれを繰り返し、突然一人で納得した。まったくついてゆけん。目と耳しか俺には見えないのだが、口元はそれはそれは楽しそうな笑みを浮かべているだろう(どうにも、人を食ったような性格だ)。
「険しい顔をしているとね、幸せが逃げてしまうんだって。だから、この状況で笑おうとは言わないけど、少しはまともな顔をしようね」
「……まともな顔、って」
「できれば今のうちに佐吉の笑顔を見ておきたいのだけど、今は無理だろうからね」
「……どういうことだ」
「きっと、私は近いうちに目が見えなくなってしまうから」
紀之介は、原因不明の病魔に侵されている。膚が爛れ、光すらを失う病。他人に感染する可能性を恐れ、紀之介は顔を白い布で覆い、膚を極端に露出しない。
「そうか」
「おや、意外な反応だね」
「そうか?」
「秀吉様に気を取られて友にまで気が回らないのかな?」
「そんなことは……」
「ふふ……、冗談だよ、冗談」
「お前……」
今までに差別や侮蔑の視線で傍観されてきたというのに、紀之介は自分の身の上を不幸であると嘆かない。こうして笑いながらすべてを受け流す姿勢を見ていると、たまに歯痒い気持ちが抑えきれなくなる。
この病は、紀之介という人格を形成するに重大な部分を担っている。それでも、人は他者と違うものを受け入れられない。これはお門違いの同情のようなものなのかもしれない。紀之介が聞いたら怒るかもしれない。他人に全てを求めるのは間違っているのだ。だからといって、他人を信じない理由にはならない。
「そういえば文が届いていたよ。返事をする前にこの報せだったが、ある意味では丁度いいのかもしれないね。聞きたいことってなにかな」
「ここではなんだから……、どこか別の所で」
「ああ、わかった」
痼疾
09/01