兼続が訪ねてきた日のこと。

あの時、襖越しに左近と目が合ったが、特別な感傷も見せずに彼は襖を閉めてしまった。
結局兼続に真実を告げることも出来ず、左近に会うという決断もせず、この状況を打破する解決策を考えることもせず、悶々と享楽にも似た言葉遊びを続けながら眠ってしまった。それは偶然や受動的なものではない。俺はあえて言葉遊びに没頭することで惰眠を誘惑し、一時的にそれらへ背を向けることを求めた。それは無意味な逃避行為であることを自覚していたが、一時でもそれらから目を背けられたらどれほど救われるのか知りたかった(余計にそれらの重荷に圧縮されるかわかっていた)。

それでも同じように惰性に日々を消化し続けている。
俺の思考は止むことのない循環を続ける。

左近は、俺のことなどどうでもいい、とまでは思っていない。だが、ただの主の家臣という存在に成り下がっただけだ。主以上の存在……、他の人間よりも卓越した、特別な存在、というわけではない。
そのことを考えるのに俺は、ばかのように時間を無駄に使った。仕事の合間を縫いながら唐突に考え始め、また仕事へかかりその思考を中断する。この一人遊びを何度繰り返したかわからない。またどれほどの意味や主義、主張を生んだのかも。
恐ろしいほどに俺の思考速度が遅滞している。

……あそこで、拒絶などしなければ良かったとでもいうのだろうか。

そうとも考えている。あそこ、とは左近に求められたときにだ(気恥ずかしい言葉だが)。この世界での俺と左近が情欲的な関係を持っていたことは先に知っていた。そのために多くの対策に気を割いてきてもいた。
俺はそこを承知して体を預けることはしなかった。
軽率な行動を取った俺の落ち度は……ある。だが、もっと根本的な俺の落ち度は、左近を信じずに真実を口にしなかったことだ。

全て始めもしないうちから自己完結し、その結果を知らずのうちに押し付け続け、勝手に被害者ぶっている俺。それをしたたかに正当化し、あたかも真理であるかのように扱い続けた俺。涙を誘うほどに『承知』と『理解』を履き違え注意を怠り、精彩に欠いた決断をした俺。

その俺が今さら真実を告げたところで、左近は俺を信じるか? 俺が左近を信じなかったのに、信じるのか? そんなむしのいい話、在りうるのか?
全て俺が招いた結論だ。
表層ではこの悩みを分かち合える人間がほしい、などと考えながら、俺は誰ともこの悩みを分かち合おうとしなかった。一人で解決できるような気持ちになって、ひたすらに、一人で走り回った。誰も信じなかった。信じているつもりで、信じる気など最初からなかった。
愚かだ。これほどまでに己の愚かさを呪ったことが今までにあっただろうか。たったこれだけのことを知るために、どれほどの日数と詭弁を必要とし、どれほどの苦痛を要求したことか。
……いや、今、この瞬間ですら、こうして未練がましく言葉を並べていることすら、無意味なのだ。
行動に移さなくては誰にも、なにも伝わらない。なにも変わらない、なにも起こらない。当然のことであるのに、知らなかったはずではなかったのに、俺は今初めて知ったように、かつてないほどの新鮮な感覚を身に纏わせた。
走ればいい。哭べばいい。そして、真実を告げればいい。
たったそれだけのことで、あたかも己の罪過を洗いざらい流しきってしまったと言っても過言ではない、過剰な解放感を謳歌した(不謹慎なほどに嬉しげな耳が見えそうだ)。
襖に手を掛け、大きく息を吸う。生暖かい空気が鼻をむず痒くさせる。それすらもまるで(なんの根拠もない)後押しにすら思えた。

必死に隠すことに意味はなかった。それが悪循環と身に募る背徳を生み出すことしか能がなかったことを知らない無知。
たとえ、俺の知っている左近と違う人間であろうと、新しい関係を築くことすら放棄すべきではない。今現在においての真っ向からの拒絶とは溝を深める材料にしかならず、進展は望めないものだ。
散々に言葉を尽くし、ようやく決意できた俺は、襖を引こうとする。

それは一種の、俺という人間の精神的な水準が高まったこと、濁悪を恐れ解放を願う乞食の指先が触れ合い、その形を確かめているような場景に感じられた。

だが、俺が襖を引くよりも早く、襖が勝手に開いてしまった。そんなからくり、俺は知らない。目の前に左近が現れる。そして俺が口を開くよりも早く、左近が声を荒げながら、一つ、告げる。


「殿……、秀吉様がお倒れに……」


なにを言っているか理解できなかったし、しようとも思わなかったが、それは記号として俺に刻まれ、無情の事実として認知せざるをえなかった。


「たった今、急使が報告に来たのです。ほんのついさっきのことです。五大老、三中老、五奉行など至急お集まりされるようにとのことです。もちろんその報せを受けてから殿の元へ至るまでに他言はしておりません。……どうぞ、お気を確かに」





倚信







09/01