平馬宛ての文を載せた馬を見送りながら、その場に立ち竦んでいた。
兼続に文を送ったときにもこうして文を見送っていた。そのときは、左近が俺に声をかけていた。だが、いくら待っても左近は来ない。見守るような甘ったるい声が聞こえてこない。
俺が、俺がこの世界の秩序を瓦解させてしまうに至った。俺は俺の言動で『俺』の積み重ねてきたものを崩してしまったのだ。
なぜ言い訳を募らない。どうして左近に真実を話さない。
揺蕩う感傷と蜃気楼に身を任せることができたら、どれほど気が楽になるだろう。だがそれは許されない。
元の世界へ戻りたい、その一心であった。だが、今この状況で戻ってはならない。
俺はなぜ、胸が苦しいのか? それは本当に『この世界の俺と左近』を壊してしまったからということだけか?……身の内に燻る感情に目をそらしてはいまいか?
知らない。俺の感情など、知らない。ただ俺は、この罪悪感から逃れようと必死なだけだ。尾を見てもただ力なく垂れているだけだ。罪悪に押しつぶされそうになって、圧縮されている心のように、地を向いている。
本当に、それだけなのだ。
いつまでも立ち尽くしていてもなにも変わらない。時は無常に過ぎてゆくのだ。体を反転させ、屋敷へ戻る。急いで仕上げねばならぬ書が山のようにある。
朝鮮攻略(いや、明、朝鮮との講和交渉をもう一度、取り成すことができればいいのだが)、左近、多次元世界……。どれもこれも膨大な情報が必要だ。それなのに俺は今、なにをすればいいのか、なにから手をつければいいのか、赤子のようにわからない。
「三成!」
背に俺の名が飛んでくる。
声質が全く違うし、左近が屋敷の外にいるわけもないし、俺のことを名で呼ぶなどありえないのだが、一瞬、左近が俺を呼んだのかと錯覚した。振り返ると、鳥の尾を引っさげた兼続が、陽気に手を振っている。つい先日会ったばかりなのだが、いやに懐かしく感じた。
「突然にすまない。以前に言っていた、多次元世界というものについて私なりに調べてみたのでね。少し話しを聞きに来たのだ」
「多次元世界について?」
自室に通し、人払いをしてから俺と兼続は声を潜めるように会話を始めた。俺はともかく兼続は、おそらく俺があまり人に聞かれたくないことを、感じ取ってくれているのだろう。
「仏教に関わらず、多くの宗教では世界を、極楽、地上、地獄の三つがあると説いている。さらに細かく言うと、肉体界、幽界、霊界、神界というものに分けられる。しかし、この意味での多次元世界では三成が求めているものと違う。三成が求めているのは『肉体界の多次元世界』であろう」
「そうだ」
「肉体界というものは、主に肉体という物質を媒介にした想念を表現する場所らしい」
「……ああ」
「難しいか?」
「大丈夫だ」
そうだ、この世界の俺は少しあほの子のような扱いなのであった。すぐに理解はできないが、何度か頭の中で反芻すれば理解できないこともない。
「つまり、私たちの存在するこの世界は物理的表現の場である。この肉体界というものは現象界と言い換えてもいい。この現象界は、目に見えるものの世界。仮象界が目に見えない世界。三成が言っているのは、仮象界のことではないか、とな」
「現象界……? 仮象界?」
なぜ新しい単語ばかりだしてくるのだ。なにを言っているのかさっぱり理解できなくなってきた。肉体界を現象界と言い換えた時点で俺は出遅れてしまった。だが、兼続が少し間を置いてくれたおかげで、ようやく頭の中で整理することができてきた。
現象界が目に見えるものの世界、仮象界が目に見えない世界。それだと、少しおかしいな。
「その仮象界とやらが多次元世界だとしたら、以前の極楽や地獄と特に変わりない存在ではないか? 結局、目に見えないのだから」
「そうだ。結局、目に見えないものとして一括りになってしまうのだ。三成、お前の情報では少し足りないのだよ」
「そうか。しかし俺もそこまで詳しく知っているわけではない。……それと、仮象という言葉はそぐわない。仮象とは実際にあるような気がするが、客観的に実際に存在を持たない形象のことだ」
「なぜ? お前がこのことを考えるに至った理由は『夢に見た』からであろう。実際に存在を持たない形象で問題あるのか?」
「……しかし、実際に存在するかもしれない」
「……そうか。ならば、不可視界とでもしておこう。これならば問題あるまい?」
「ああ、そうだな。見ることのできない、世界」
俺はこうして、見るどころか体感してしまっている。
しかし、俺の情報が少ない、とな。俺自身に情報が足らなくて兼続に聞いてみたりなどしたというのに、兼続も情報が足らないと首をかしげてしまった。そうだ、慢性的な情報不足だ。
俺のことを、真実を話してしまえば、少しは足しになるのだろうか……。今まで頑なに介入を恐れていたが、もう後戻りが出来ぬほど足を踏み込んでしまった。今さら兼続に真実を話したところで……、ばかか。こんな話信じられるわけがない。
どうしたものかとため息をつくと、兼続の手が俺の頭を力強く撫でた。耳を触るわけでもなく、純粋に子供の頭を撫でるようだった。不快感は不思議とない。
「そんなに落ち込むな。お前の耳が垂れているとどうにも私は、母性本能じみたものを感じてしまうよ。なにか知っていることがあるのなら話してみろ。私も出来うる限り調べてみるから」
「……なぜ、たかが俺の夢ごときに?」
「単純に、おもしろいからだよ。多次元世界、そんなものがあったのならどれほど素晴らしいか。別の私が存在して、違う生き方をしている可能性がある。見ることは叶わないかもしれないが、それが存在すると感じられるだけで、私は充分楽しい」
揺曳
09/01