高らかに足音を響かせて自室に戻った俺は障子を閉め、すぐに褥にもぐりこんだ。すぐに蒸してきて汗がにじみ出てきたが、決して掛け布をめくろうとは思わなかった。
なぜ、俺はこうも膚の触れ合いに怯えているのかは知らない。ただ、気付いたころには嫌悪の対象であった。体中の臓物がひっくり返るほどの不快感、なにもかも――俺自身すらも吐るような嘔吐感、触れられると痛みすら感じる過剰反応。
嫌いだからそうではなのではない。嫌いだからこんな反応をするのではない。嫌いだから拒絶するわけではない。憎いから嘔吐するのではない。憎いから震えるのではない。憎いから触れないわけではない。
ここまで酷い反応をしたのは、初めてかもしれない。今までに左近にそういう目的で触れられたことがないから、余計に過剰に反応してしまったのだろう。他意がなければ、普通に触れることくらい俺にだってできた。そういう明確な意図を持って触れるから、ここまで混乱した。性的な意味合いのものを拒絶してきたツケか。
俺は、嫌いだ。あんな生々しいものは大嫌いだ。あの、媚びるような声も眼差しも陰部も、憎悪すら感じる。
寺小姓であったときに、俺もそのようなことを求められたことがあった。断れる立場ではないことはわかっている。だが、事前に別の小姓との行為を見てしまったときに、性行為に対する膨大な恐怖と嫌悪を感じた。その記憶が今でも脳裏にまざまざと浮かんでくる。におい、音、影像、全てが鮮明に思い出せる。女犯に恐怖する僧侶の心の茨、なにも生み出さない快楽のみの行為。醜い。俺は断固として拒み続けてきて、そして秀吉様が俺を召抱えてくださった。それから秀吉様は衆道の気がないことを知った。雄である以上、それが通常であるのだ。なのに、なぜ、摂理に反することをする。
……いや、関係ない。衆道であろうとなかろうと俺はその営みを一生恐怖し続けるだろう。
この世界の俺は、俺のように見てしまわなかったのだろうか。寺小姓のときに、僧侶と他の小姓の行為を。その違いが、俺とこの世界の俺の差異を生み出しているのだろうか。
「殿」
ぼやけた左近の声がする。掛け布のせいでぼやけているのだろうか。
つい先ほどにあのようなことがあったというのに、どんな顔をすればいいのだ。そこで少し無理はあるが、たぬき寝入りをするにした。暑さによる汗が一気に冷や汗に変わってゆく。
「先ほどの非礼、どうぞお許しください」
今、左近の違和感がようやくわかったような気がする。必要以上に甘ったるいというのもあるのだが、妙に余所余所しい……いや、礼儀正しい。余所余所しさはおそらく俺が作ってしまったものだ。
思わず言葉を紡いでしまいそうになる。いかん、俺はたぬき寝入りなのだ。
「……なにがあったかは存じません。左近が力になれるかもわかりません。ですが……、左近はこれでも、石田三成の片腕と言われ、また、それを自負しています。しかし、もし、殿が左近の顔など見たくないとおっしゃるのならば」
そこまで聞いて、カッと頭に血が上るのを感じた。感情のままにわめくのは、嫌いだが感情を感情で抑制することは難しい。
掛け布を蹴り飛ばして起き上がり、襖を力強く引く。スパン、と耳が痛くなるほどの音が劈いた。正座をし、耳も尾も完全に垂れている左近がいる。それを見るだけで、俺の行動がいかに左近を傷つけ、『この世界の俺』と左近の関係に介入してしまったかがよくわかった。
「誰が見たくないなどと言った」
行動は感情の赴くままに荒々しかったのだが、喉をついて出た言葉は意外にも落ち着いていたことに、驚いた。同時に、客観的にこうして自分を見る余裕があることにも驚く。
「そうやって自己完結して楽しいか。俺の行動がお前に誤解を与えるのもわからなくもない。その点は俺の落ち度である。だが、また牢人になろうとなどでも言わせはしない。……『俺』の勝手でお前を手放す訳にはいかないのだ」
この世界の左近は、この世界の俺が、大切にしている存在なのだろう。何度も言ったとおり、違う世界の『俺』がこの世界での均衡と秩序を崩してしまうわけにはいかないのだ。俺のいた世界に『俺』がいたように……、この世界にも『俺』がいるのだから。
最初は『この世界の俺』の存在などどうでもよかった。なぜ俺がこのような目に合わなくてはならないのかという思考が勝り、この世界の俺の都合など考えてもいなかった。ほんの少し、この世界に生きただけだが、この世界の俺は他人と独自の関係を築き上げ、その中に生きていることを実感した。左近や兼続、おねね様に『雰囲気が違う』と言われ、特にそう強く自覚した。
俺はここにいてはいけない存在である。ここにいるべき『俺』は俺ではない。
「殿の勝手で、左近を手放す……。そうですね、左近はもはや殿の重臣。今左近がいなくなれば、様々なことに影響を及ぼしてしまう可能性がある」
「……さこ」
「感傷的な行為に及んで申し訳ありません。二度とそのような真似はいたしませんので、ご安心ください」
「ちっ、ちが……」
「では、ゆっくりお休みくださいな。失礼します」
襖がゆっくり閉まる。
なぜ、俺の腕は襖を止めない。足は左近を追いかけない。口は真実を紡がない。
俺は余計な一言で、『この世界の俺』に完全に介入してしまった。
膚に触れられたときとは違う吐き気がしてきた。
霍乱
09/01
(TORAUMA!)