ずっと押し殺してきた感情がある。
『山へ行きたい』
どうにも山へ行きたくて行きたくてたまらない。そんな暇がないのだから庭で我慢しているのだが、やはり山へ行きたい。獣の耳と尾が関係しているのだろうか。周りの人間はそんなそぶりも見せぬ。俺だけの感情か? 獣の耳と尾という存在で、表層だけ真似てみたくなっているとでも言うのか。俺は野生化したいわけではない。普通の人間に戻りたいだけだ。
……しかし、よもや欲求不満に近いぞ、この苛立ちは。
俺は人間だ、俺は人間だ俺は人間だ!
俺を侵食するな、俺を奪うな、俺を洗脳するな!
元に戻りたい、戻りたい戻りたい、戻りたい! 俺はこの世界で生きるべき人間ではない! この世界で生きるべき俺は、別の存在だ! 誰だ、誰が俺をこんな目にあわせている!
強く筆を握りすぎたせいか、鈍い音を立てて竹の部分が折れてしまった。使いやすくて気に入っていた筆だったのだが、激情に任せて駄目にしてしまうなど……俺らしくもない。
俺“らしい”……。
らしさとはなんだ。俺は『俺はこうである』というほど俺を知っているのか? いいや、知らない。俺の言う『俺らしい』とは『こうでありたい』という願望の形だ。筆を折ってしまった俺が現実なのだ。
夜の冷ややかな風が頬を撫で、熱くなっていた頭が冷えてくる。障子を開け、高くに上った月を眺め、ようやく冷静で穏やかな心を取り戻したような気持ちになれた。
そうだ……、熱くなったところで解決などしない。冷静に、着実に事象を消化するのだ。
秀吉様とおねね様はやはりこの世界の人間であった。兼続も左近もやはりこの世界の人間だ。……平馬に、会うか。そんな時間が取れればいいのだが。だが、平馬は病床の身であったか……。あまり無理をさせてはならない。いや、相談など無駄か? しかし平馬なら、俺の全く知りえない分野のことも知っていそうな気がする。
同じ時の流れ、慶長三年。
明に和平交渉へ向かい、帰ってきているだろうか。予想外に大きな差異が見えるものだから少し不安ではあるが……、俺の性格によって差異が生まれているのならばここは変わらないはずだ。
急ぎ文を書き上げ部屋を飛び出す。だが、部屋を出たところでようやく落ち着いた。今は夜だ。文は明日の朝一番に届けさせるとしよう。俺としたことが、少しなりふり構わずにいてしまった。
「殿」
「左近、か」
部屋へ引き返そうと踵を返したところで、俺を呼び止める声があった。左近である。振り返った先に灯りを手にして、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。そういえば、あまりこの左近には表情の変化がないように思える。柔らかく笑ってばかりだ。
「どうしたのですか? こんなところで」
「……いや、なんでもない。俺は自室へ戻る。お前もゆっくり休め」
なるべく疲れているそぶりを見せるよう、努力したのだがどうだったろうか。
左近にまた背を向けて歩き始めた。その足取りは妙に重たい。
必要以上に近寄らないようにしようと思っていたのだが、どうにもあちらから俺に近寄ってくる。近寄ってくる、という表現が適切なのかは知らんが。
以前の世界にいた時は隣にいるのが当然だった。毎日いろんな話をして、俺の肥やしとしていた。……ただ、世界が違うだけで、俺は左近であろうと遠ざけてしまう。別人だ、あれは俺の知っている左近ではない。だが、妙に心が痛む。嫌いだから遠ざけるのではない。この世界で存続することを良しとする俺が現れそうになるのが、ひたすらに怖い。
左近ももう自室へ引き返しただろうか。返事がなかったのが少し気になる。だが、変な気を起こされてはたまらない。俺は自室へ戻るのだ。
「うおあっ」
「殿」
体に走る鋭い衝撃。痛みではなく、純粋な衝撃だ。身動きが取れなくなる強い力、束縛。布越しに膚の熱さが伝わってくる。
白、反転、閃光、点滅。
認識するのに時間がかかってしまった。
首筋を這うねっとりとした熱い吐息や、必要以上に強く抱く腕、やたらと切なげな声音。おぞましさや、恐ろしさ以前に、妙な罪悪感じみたものが生まれてきた。しかし、『俺』では駄目だ。
「はっ、放せ!」
「殿は、左近のことをお嫌いになられましたか。左近を避けておられる、触れられることを嫌がる、まるで余所余所しい態度……」
「そのようなことはないっ、だから、放せ!」
俺は男である。いくら左近のほうが筋力も体格も勝るとはいえ、女子のように抵抗が無駄に終わるわけではない。
いつまで経っても左近は手放す様子を表さない。それどころか、どうやら先の行為へと進もうとしている。それは許さないし、気に入らない。左近と衆道関係であることすら許せないのに、左近のほうが優勢などもっと許せない。
顔だけ振り返る。完全に後ろを向くことは出来ないから左近の表情は見えない。
「言葉ではなんとでも繕えるのですよ」
「だからといって、膚の触れ合いに持ち込むなど感傷的だ。人間は子孫を残す本能がある。生殖行為などいくらでも出来るのだよ!」
「衆道にそれは関係ありません」
もう一つ段階が進みそうだ。手の動きがやらしい。
気持ち悪い、気持ち悪い! 吐き気がする、おぞましい!
触れるな、俺に触れるな! 誰も、誰も触るな!
「……いい加減にっ、しろっ、ボケがあ!」
「うわっ」
足が床について、踏ん張れたことが俺の勝機だった。
いつぞやかに秀吉様を片手で持ち上げた俺の筋力で、背後にいた左近を持ち上げ、勢いのまま前傾に放り出してやった。腰と首を痛めてしまったが、些細な犠牲だ。
反駁
09/01
(家臣にも屋敷ってあったような気がしたのですが、嘘知識満載なのです)