衝撃の事実を聞いてから一夜が明けた。俺が清正と良い関係を築いているなど、未だに信じがたい。左近が俺を騙している……そんなことをする利点がまるでない。
あれから俺は、半ば左近を追い出すような形にして床についた。大して酒も飲まなかったのだが、少し頭の回転が鈍ってきていたし、あれ以上左近がいたら流されて大変なことになっていたかもしれなかったからだ。
最初は耳と尾以外、大した差異はないと思っていた。だが、左近の雰囲気が必要以上に甘ったるい、俺の大幅な性格改悪(と言ったらこの世界の俺に悪いが)、清正(おそらく正則も)との優良な関係。もしや、家康が天下を狙っている可能性も低いのだろうか。いや、俺がいくら性格が丸かろうがあの男は天下を狙うだろう。この世界の差異は基本的に、俺の性格の違いから生まれているようだからな。そう考えてみると、兼続も少し雰囲気が違うような気がしてきた。なんだか、俺と対等というよりも、俺を甘やかすような、子供でも見守るような妙な甘ったるさがあったかもしれない。単なる後付けの美化かもしれんが。
いや、俺のすべきことはこの世界について新たな発見をすることではない。いかにして元の状態に戻すか、ということだ。
じっとしていることが出来なくて、気晴らしに庭をうろうろ歩き回る。日差しが照っていて、少し動くだけで汗がにじみ出る。その中で小石を蹴ってみたり、草花の数を数えてみたり、風に揺れる葉を眺めているうちに、『どうでもいい』だとか『なるようになる』といった、俺の大嫌いな感情が生まれてきた。どうでもいい訳があるまい。なるようになった先に何が待ち構えている。
ともかく元に戻る方法を探さなくてはならない。
……しかし、これといった打開策も浮かんでこない。なんの示唆もないのだ。ここへ来た理由も不明、ここへ来たきっかけも不明、ここへ来てなにをするのかも不明。宗教はなにも関係なさそうである。超自然的な力が働いていたとして、神やらの存在の有無も不明。同じ状況の人間もいない。……いや、まだ俺の知っている全ての人間に会ったわけではない。
まずはいろいろな人間に会い、少しでも可能性を見つけ出すしかなさそうだ。ひどく地道な作業ではあるが、まだまだ絶望的な状況ではない。そこで俺は、秀吉様に会うことに決めた。ここのところ体調不良を理由に全く城へ出向いていなかったのだから、本当はいい加減会わなくてはならなかったのだ。
「おや、殿、ご加減はいかがでしょうか?」
少し遠くから左近の声がする。振り返ると書を抱え込んだ左近が廊下に立ち、俺を見て笑顔を浮かべている。笑い返すだとか、駆け寄るなどという芸当も出来ない俺はその場に立ち尽くしたままどうしたものかと考える。そうしているうちに左近がこちらへ寄ってきたから、俺は返事をすることに困らずに済んだ。
「うむ。良くなった。そろそろ登城する」
「それはそれは。長い間休まれていたのです。きっと皆心配しておられましょう」
「……ああ。しかし、溜まった書のことを考えるとまた気分が悪くなりそうだ」
何日俺はこの屋敷にこもって休んでいたのだろうか。その間に少し書に手をつけてはいたが、大した量ではない。どれほどの書が溜まっているのか、想像もつかないししたくもない。
「大丈夫ですよ。殿は休まれているというのに随分こなしていらっしゃったではないですか」
「……あの程度では間に合わん」
「そうですかね?」
想像しただけで、肩がこる。
ふと左近の尾が目に付いた。やはりばたばた揺れている。俺と会うときはたいてい、左近の尾は激しく揺れている。自意識過剰かもしれないが、そんなに俺と会うのが嬉しいのか、とも思う。対して俺の尾は、仕事のことを考えたせいかしんなりとしている。本当に尾や耳というものは、感情をわかりやすく表現してくれていて助かる。俺は人の感情に疎い人間だから、こういう目印があることは便利だ。
「しかし、殿と喋ったら秀吉殿も驚くでしょうねえ」
「……俺はそんなに、変わったか?」
「いや、左近が殿と近しいからだけかもしれませんが、結構違いますね」
「嫌なのか?」
この世界での俺というものをあまり変えたくはない。だが、『俺』は『俺』という人間でしかありえないのだ。そう易々と他人にはなれない。しかし、そうなろうと努力はしているつもりだ。これでも。
だが、何十年と『俺』は『俺』であった。突然『別の俺』になるなど、無茶な要望だ。
もし左近がこの俺を少しでも不快に感じているのならば、俺はさらに『俺』を改める必要がある。この世界の俺が戻ったときのためにも。
「え?」
「お前は難しい言葉を使う、感情の起伏が薄くなった……と言った。俺には違いがわからん。この俺は駄目なのか?」
「駄目ってわけじゃないですよ。殿は殿なのですからね」
違う! 本当は、お前の言う殿と、俺は違うのだ。……わかっている。無用な混乱は避けるべきだ。悪戯にこの世界を掻き乱すことなど、してはならないのだ。郷に入っては郷に従え、と言うではないか。
俺はなるべく、この世界での俺を演じなくてはならない。長居するつもりはないが、長居することになる可能性もあるのだから。
「そうか」
「そうか、って。結局なんなんですかあ?」
「『俺』は『俺』であると同時に、『俺』である必要もあるということがわかった」
「はあ?」
『俺』は『俺』である。しかし『この世界の俺』でなくてはならない。
しかしそう長くも持たないだろう。早急にこの全ての体系を解明し、なにもかもを元通りにするのだ。
狂躁
09/01