「変なことを訊くやつだな」

 路面に踊る影が闇に同化する直前に、細面の鼻筋が通った男は薄笑いを浮かべ立ち止まる。肩にかかった髪を鬱陶しげに振り払い、顔を左右に振る。濃霧のせいか湿気がひどく、髪は顔に張り付く。眉根を寄せ顔にかかる髪を耳に乗せる様まで巧緻を尽くされているようだ。
 彼は寂々としたその場に高らかな跫音(きょうおん)を虚無に響かせ、山脚にぽっかり口を開けている空洞へ入っていった。幅はちょうど、両腕を左右に目いっぱい開くと両端の壁を触れるほどだ。

「なぜここへ来たか、だって?」

 中は人の手が加わった様子がなく、足場は凹凸がひどいものである。彼はそんなことは意に介さず、重力の掟を知らないのか跳ねるように奥へ踏み入ってゆく。闇に錯雑する蝙蝠たちは来訪者に決して近寄らない。彼もまた、蝙蝠たちには見向きもしなかった。彼が見据えるのは正面の無のみだ。
 洞窟へ入って間もないころは日の光が差し込んでいたが、もはや彼は自分の手すら視認することができないようだ。何度も手を目の前で振り回してそれを確認しようと試みている。けれどそれも諦めたのか、それとも目が慣れてきたのか、彼は揺曳するように歩き始める。依然として凹凸はひどく、蝙蝠たちは金切り声で来訪者の侵入に精一杯の対抗意識を燃やしている。この状況下でも彼は顔色ひとつ変えずに歩き続ける。

「意味が必要なものか? ここへ来るのに」

 ビシャリと水が迸る音が洞窟内に喨々(りょうりょう)と響く。
 濃霧の中の深く日の当たらない洞窟に、水溜りがあってもなにも不思議なことではない。一瞬は目を丸くして膝のあたりを触った彼だったが、犬のように足を篩ってまた何事もなかったように歩き出す。しかしそれからというものの、水溜りが格段に増え、最初はいちいち立ち止まっていた彼だったが、次第に背中の毛ほども気にしなくなった。

「理由を知りたいだって? なぜ?」

 足元ばかりは濡れ鼠の彼は涼しげな顔で背後を振り返る。前後左右すら見失う暗闇の中で後ろを振り返るというのは、奇矯な行為だ。しかし彼はまた薄笑いを浮かべ、踵を返し歩き始める。
 戛然(かつぜん)の音が響く。彼が石を蹴ったのだ。彼はしゃがみ、手探りで石を探し当て、石の形を知ろうとする。手のひらほどのたいして大きくもない石だ。それを足元に置き、彼は石を蹴りながら歩き始めた。音は遠くまで延々と響き、この洞窟の深さを示唆している。

「言葉にしたらもったいないな」

 彼は黙々と歩き続けている。疲労どころか、耳や目を癈(し)いているというのに居竦まる様子や怖気つく要素をまったく孕んでいない。むしろ、恐怖などとは正反対の凛々しい面持ちで先を進む。まるで、彼は地に足がついていないようだ。だが、彼はしっかと地を踏みしめ、先ほどの石を的確に蹴っている。
 石は彼の足に蹴飛ばされると、凹凸の地をいびつに転がる。いくら目が慣れたとはいえ視界は高が知れている。音とは言っても円筒のような洞窟の中、転がる音は余韻の尾を垂らし壁へ吸い込まれていく。それでも彼は予測することは難しいはずの石の転がる先へ必ず待ち構えている。

「よく言うだろう。願いを口にしたら、叶わなくなると」

 同じことを繰り返すことに飽きてしまったのか、彼は石をそっぽへ蹴り、また身軽に歩き始める。石が水溜りに飛び込む余響の中、彼はひとつあくびをする。
 彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。歩き始めて相当経つことや、洞窟の中腹なのか湿気がこもっていることが原因のようだ。鼻筋にかかる前髪をかきあげ、うなじに手を通し、襟の中に入り込んだ髪の毛を放り出す。髪を纏める紐を探しているらしく、片手で髪を一まとめにし、もう片手で自分の着ているものをはたはたとまさぐる。しかし見つからなかったようで、諦めて髪を手放した。

「無駄だって? なぜ?」

 先ほど着物をまさぐったときに、彼は扇の存在を思い出していたらしい。手にふたつの扇を持ち、どちらを使おうか考えているようだ。ひとつは桜色の半紙で作られた軽く小さな扇。それは彼の手より一回り大きいだけだ。もうひとつは、彼の腰ほどにまである大きな鉄の扇。開くと紅梅の模様が渦を描いている。中央には大きな文字が書いてあったが、そこは汚れていてなにが書いてあるかわからない。彼は小さな扇を使うことにし、大きなその扇を腰から提げ、はたはたと首元を扇ぎながら歩き始める。
 彼は今までと同じように身軽に歩こうとするが、腰から提げた鉄扇が擦れて不快な音を立てる。突然に地に縫い付けられたような不自然さである。彼は柳眉を逆立て鉄扇を押さえながら歩き始める。

「……なぜ、そう言うのだね」

 腰に鉄扇を提げたとき、彼は何気なく長い陣羽織を鬱陶しげに掃っていたようだ。それを思い出したらしい彼は陣羽織を脱ぎ、それで鉄扇をくるみ、肩から提げられるようにする。彼は自身の発想に悦予を抱いたようで、口角をわずかに吊り上げる。それは何度か見せた皮肉(シニック)な笑みとは違い、細れ水のように穏やかな笑みだった。
 陣羽織の背中には文字が書いてあったが、それもまた汚れに汚れ読み取ることはできない。

「いいや、それは歪曲された妄想にすぎない」

 徐々に歩く速度が落ち、彼はとうとう立ち止まった。視界を遮る前髪をかきげようとし、額を守る薄い布に指がつっかかる。それを出来うる限りに引っ張り、上目遣いに確認する。それから彼は湛然とその場に立ち尽くし、薄く口を開く。

「嘘だ!」

 轟然とした彼の声が洞窟の中でなんどもこだまする。彼の赤褐色となっている頬を、汗が淋漓と滴った。顎まで到達した汗は地へ吸い込まれるように彼から離れ、水溜りの一部になる。
 息の荒くなった彼は慌てて肩に下げていた鉄扇入りの陣羽織を見る。それだけではもどかしかったのか、鉄扇を放り出し音を立てて陣羽織を開く。岩に金属が擦れる音と、水音が激しく響く。それでも彼はそんな音などしなかったように、一心に陣羽織を見つめる。

「嘘だ! 嘘だ嘘だ! 認めない、俺は認めない!」

 陣羽織の汚れは、彼の頬と同じ赤褐色である。それが何を意味しているのか、彼は完全に混乱しているから気付いていないのだろう。
 仇むがごとくに陣羽織をを投げ捨て、自分の胸元を見る。そこもまた赤褐色である。それが気に入らなかったのか、彼は胸を掻き毟り、下半身を見る。独特の縦縞模様の袴はところどころが赤褐色と泥に塗れている。

「いや……、嫌だ! 嫌だ! 死にたくない、死にたくない、俺は死にたくない!」

 最初に放り出した鉄扇を手探りで見つけ出し、彼はそれをまじまじと見る。こびりついていた汚れをはらうと『大一大万大吉』という彼の定めた家紋が全貌を現した。ところどころ汚れが染みとなって残っているが、それでも充分だ。
 彼はその鉄扇を胸に抱き、走り始めた。

「違う、俺は死なない、死んでなどいない! 俺は生きる、生きている!」

 最初の身軽さはもはや微塵も感じられなかった。何度も凹凸に躓き、泥に足を滑らせ彼は体中を泥まみれにしながら走る。しばらく姿を消していた蝙蝠たちが現れ、彼を啄ばむかのように頭上を旋回する。彼はそれを拒み、顔を自分の腕にうずめながらがむしゃらに走り続ける。
 いつの間にか水溜りは数を潜め始め、足場が断然に良くなった。しかし彼はそれを知覚することなく無我夢中に走る。

「俺は勝つ! だから、死なない、死なない、死にたくない!」

 彼の独特な履物がカツカツ、ガシャガシャと音を立てる。それが復興の槌音となれば彼もまた歓喜するだろう。

「秀吉様のため、秀頼様のため、友のため、同志のため……、大切な人たちの、大切な未来を守る、だから死なない、死にたくない! 道がある、道があるから歩くのだ、走るのだ。その道を走っている! ああ、風のように駆け抜ける!」

 彼は地面の凹凸を問題としなくなった。まるで最初の余裕を取り戻したのか、羽でも生えたかのように走る。表情は生き生きとしているが、縋るような哀願の情が目ににじみ出ている。
 薄ぼんやりとした陽光が彼の顔を照らし始める。その光を目にした彼は泥だらけの顔を歓喜で満たし、鉄扇を握る手のひらの力を強め、一等早くそこへ向かった。

「ああ、聞こえるか! この歓笑の声を!」

 両手を広げ、彼は入ったところと同じように大きな口の出口に立つ。
 一瞬のうちに彼は哀歓を謳歌してしまったように、表情を打ち消してしまった。彼の目の前に広がっているのは、延々と続く野、この大きな口を隠すごとくに生える口ひげのような樹木たち。そして変わらぬ濃霧である。濃霧により、この野がどこまで続き、空はどんな表情を見せ、どんな人間がいるのかはわからない。
 鉄扇を取り落とし、それを拾うこともせず彼は自らの手のひらを見る。手を覆う手袋は茶色に変色し、固くなっている。それが血液が凝固したものだときっと彼は気付いているだろう。

「『願いを口にしたら、叶わなくなる』……か」

 彼は靉靆(あいたい)と一笑し、拳を強く握り締める。

「俺は、死んだ。死んだ、死んだのだ」

 一陣の風が通り抜け、彼は羨望の眼差しで風の流れを見つめる。闃寂としたその場に彼は立ち尽くし、虚無的(ニヒル)な笑みを浮かべる。

「無畏施(むいせ)の救いなどいらんよ」

 樹雨が彼の頬をつと伝い、地へ吸い込まれていった。






09/10