タ・メタ・タ・フィジカ






「人間とは不思議なものだ」
「え?」
「不思議なものだと思った。存在というものに」


考え始めたらきりもなく、どれほど時間があっても明確な答えなどなく、結局主観的な答えにしかならない問いが頭を掠めた。そんな余裕がないときに限って、そんなことを考えてしまう。いや、こういう事態だからこその問いかもしれない。秀吉様がご逝去され、家康が天下取りの様相を見せ始めたばかりの頃から、この問いは俺の中で燻っていた。
それを今、おそらく西軍が勝利するまでは会えないであろう幸村との会話でふと口にしてしまった。誰と議論を重ねても泥沼にしかならない問いを、なぜか幸村の前で。


「不思議なもの、ですか?」


左近にも一度投げかけたことがある。そのときは『不思議とは具体的にどういう意味か』と『存在についてだ』という水掛け論に終始した。不思議をこれ以上にどう表現するかが宿題だった。あまりに抽象的すぎたのだ。


「ああ。幸村は……、不思議に思ったことはないか? 人間というものが何故存在し、なにを理由に生きるか」
「えっと……、すみません。愚鈍なもので、あまり難しいことは考えられなくて……」
「確かに、こんな自問自答、必要ないからな」


親しい人間が死んだときは、こんなことを考えたこともなかった。ただ、それが人間というもので、死ぬことは誰もが避けられない真理であると、あいまいに考えていた。だが、秀吉様が亡くなり、家康が動き始めてから『何故』という文字が脳裏で揺らめいている。
家康が次の天下を狙っているということは感じていた。だから予想の範疇だったのだが、実際にその事実を目にすると捉えようのない猜疑が広がり、周りがなにも見えなくなった。現実性や立体感がまったくない、平面の世界に見えるのだ。

『存在』とは、どういうことか。改めて考えると、なにひとつ論証する言葉を持っていないことに気がついた。この場合の問いは『俺の存在とは』ではなく、漠然とした『存在とは』というものだった。左近が首をかしげるのも無理もない。だが、俺は『俺の存在』については興味もなく、俺が属する範疇(カテゴリ)についての『存在』について、知りたいのだ(けれど、誰の答えにも満足も納得もできない)。


「何故存在するか、ですか……」


俺が黙っている間に、幸村はずっと俺の問いについて考えていたようだ。深く考え込んでいるのか、視線がまったく動いていない。
幸村は自分を愚鈍と称したが、それはまったくの自虐だ。愚鈍な人間はたいして考えもせずに安直な答えを導き出すことが多い。必死に俺の問いを消化し、なおかつ言葉を探す努力している幸村を誰が愚鈍と言えるか。


「やはり難しいですね……。どこに主観を置くかによって答えが違うと思います。表面的人間か、内面的人間か、それとも自然か、人工物か」
「言われてみればそうだな。俺も漠然とした問いしか頭になくてな、そこまで細分化されていない」


幸村の言うとおり、主観を置くところによって答えは全く違うものになるだろう。人間に主観を置いたと仮定して、最も多い答えは『死ぬためだ。あるいは生きるため』というものだろう。人間も多様な生き物で、誰もが紋切型(ステロタイプ)の生き方をしているわけではない。俺は秀吉様に才を見出され佐和山十九万石までの身の上になったが、同期の寺小姓は全く違う生を歩んでいる。
しかし、誰にでも変わらぬ真理。それが生きることと死ぬことだ。

自然。自然に主観を置いたとして人間の存在とはなにか(『何故存在するか』は『存在とはなにか』に置き換えられる)。木を切り、梳り、建物を建立し、焼き払う。木、花、草に名を与え、時に愛で、時に踏みにじる。自然にとって人間とは、どこまでも自由な、自分本位の存在なのかもしれない。同時に、明確な意思を持ち一個体が動き回ることのできる存在。

では、何故自然(木・花・草)は一個体はずっとそこへ根を張り無言に立ち尽くし、人間は一個体が自由に動き回り、知恵を身につけ自然を自由にするか。何故人間は歩き、走り、這い、物を掴む手、生殖行為、考えることを知ったか。何故手や足は存在するか。何故動き回らなくてはならないのか。何故地に伏すだけで栄養を摂取できない造りとなったか。何故人間は価値を決定したのか。何故人間は求めるのか。何故他人が決定した価値を絶対だと感じそれを強請るのか。何故人間は、それを享受しているのか。

考え出せば出すほど、話はあちこちに飛び回って定まらない。左近に『話があちこちに飛ぶ人って、理論的な思考が苦手だそうです。まあ飛ぶんですから理論的じゃないですな。他にも支配欲や顕示欲が強くて他人に対する思いやりに欠けるとか。ここら辺、当てはまってますなあ』と、茶化されたことがある。


「すみません。三成殿が聞いているのはこんなことではありませんよね。なんとなく意味は取れるのですが、やはり私にはわかりません。強いて言えば……、『心の中の大切なものを守るため』、ではないでしょうか」
「心の中の、大切なもの?」
「趣旨がずれていることは承知しております。ただ、私はそう考えています。……って、慶次殿に教えてもらった言葉なんですけれどもね」


照れくさそうに幸村は笑い、頬を掻く。その動作が妙に少年じみている。他人の受け売りということは決して恥ずかしいことではない。その意味を理解しているならば。

『心の中の大切なもの』とは、具体的にどういうものか。それこそ主観の問題だ。それを守るために人間は存在している……、確かに趣旨はずれている。そうすると、人間というものの存在よりも先に『人間が育んでゆく内面』が構成されていることになる。幸村は、『今』幸村が存在していることについて言ったのだ。


「何故、人は歩くと思う」
「何故?」
「何故、人間は存在しているのか。幸村の答えは個人の水準(レヴェル)のものだ。その答え、嫌いではない。だが、今俺が気になってしかたがないことは、人間という範疇の水準での答えだ。これはもちろん、その範疇の中で犇く俺たち人間には到底、答えなど導き出せる問題ではない。だが、だからこそ知りたいと思うのかもしれない。もしくは、そういった漠然とした膨大な問題に挑戦する自分を、『他人とは別格』と錯覚し、格好がいいとでも思っているのかもしれない。人間はいつから存在し、いつまで存在するのか。存在しはじめた理由と、滅亡する理由。誰も知らない。しかし人間には、人間として存在する限り、それを知る権利、とでもいうものがあると思う」
「しかし、その答えは誰も持っていない。自分の導き出した答えは水平線のような自慰行為に等しいもの、ですね」
「ああ、その通りだ」


時折、鋭いことを言う幸村だからこそ、俺はこんな問いを吹っかけたのかもしれない。自分が見て見ぬふりをしているところを槍で一突きにするような言葉を、裏の意味も含めず、無垢に紡ぐ。

そうだ。考えること自体が自慰行為。自慰行為で導き出した答えも自慰行為。

時間と労力の無駄、自己の快楽のための言葉遊び、何も生み出さない。
だが、俺はこれについてほんの少しでも、考える必要がある。何故人間が存在し、何故人間は野心を持つのか。何故、何故、何故。何故、何故。

ないものねだりのあまえたの、まるでこども。


「じゃあ、そんな三成殿に僭越ながら私がひとつ、言葉を残しましょう」


おほん、とおちゃらけた咳払いをした幸村は、仰々しい言葉回しでそう言った。こういう態度を取る幸村は珍しい。いつもどこか、おずおずとした、萎縮じみたものをわずかながらに滲ませていたのだ(それは、俺の態度にも問題があるとは思うのだが、どこか幸村は劣等感じみたものを持っている)。


「人間が存在するのは、他者(人間)を守るため」
「……他者を?」
「そうです。確かに……、今は対立し、戦があり傷つけあっています。ですが本質的なところでは、人間はひとりでは生きていけない。だから人間は他者を守り、守られながら生きる。人間が発祥した瞬間に人間は『他者を相互扶助すること』と本能に入力(インプット)されているのだと思います」
「それも少し、趣旨が」
「いいえ。そもそも人間が存在しはじめた理由について訊かれているのはわかっています。しかし、人間が存在しはじめた瞬間に、『それがひとりであった』とは限らない。もしかしたらふたりだったかもしれない。飽くまで想像に過ぎませんが、『ひとりであった』というのも想像に過ぎない。ですから、『ふたりで始まった』という仮定の場合の、私の答えです。えっと、たしか、基督教(キリスト教)では、ふたりから始まったんですよね」
「……いや、確か、男が先に創られ、男から女が創られた」
「……あれ」


顔を真っ赤にした幸村は、苦笑いを浮かべながら「知ったかぶりしてすみません」と言う。

基督教は、伴天連追放令(バテレン追放令)により資料は随分と品薄状態だから、俺が詳しいのは、きっと行長にいろいろと聞いていたからだろう。しかし、伴天連追放令もしかたのないことだ(傲慢)。俺自身もなるべく吉利支丹弾圧を緩和させるべく尽力したものだったが、日本人を奴隷として海外へ売る宣教師がいたというのも事実なのだ。人間の相互扶助? 奴隷が? 人間は他者を制圧するために存在していると言われたほうが、よっぽど納得できる。主と奴隷という関係では、確かに相互扶助は成り立つが、対等な立場ではない。それを相互扶助と呼べるものだろうか。


「……なんだか説得力に欠けてしまいましたけれど、私はそうであったら、とても素敵だと思います」
「理想家と左近に言われる俺よりも、理想家だな」
「だって、三成殿も『秀吉様を守るために』存在しているではないですか」
「それは、治部少輔としての俺だ」
「同じことです。えっと、『しゃらくさい言葉遊びなんてやってらんねえぜ』って、慶次殿ならおっしゃいそうです」
「……お前は、慶次が大好きだな」
「ええ、心の師です」


融和してしまいそうな笑みを浮かべた幸村を見て、再度考えた。

最初に考えたとおり、人間は一個体がそれぞれ違う思想を持っている。生と死のみが真理。根本の存在理由は同じなのかもしれない。その存在理由は主観。
守るために存在する、守られるために存在する、搾取されるために存在する、搾取するために存在する、渇望するために存在する、圧迫するために存在する、圧迫されるために存在する、安心させてもらうために存在する、安心させるために存在する、生きるために存在する、死ぬために存在する。


「そうか……、守るために、守られるために、人は存在する……。それは、なんと、心地好い結論だろう」
「だから、私は三成殿を守ります」
「俺も……、お前の生きる世、豊臣の世、兼続が生きる世、左近が生きる世、慶次が生きる世、民が生きる世を、守ろう」
「ひとり、抜けてますよ」
「誰が?」
「三成殿です」
「……俺?」
「そうです。自分が生きなくては、相互扶助は成り立ちません」
「……そうか。そうだ、俺は生きる。皆が笑って暮らせる世を守るために、存在する」


だが、俺の主観での相互扶助である。家康から見たら、また家康の守り守られるものがあるのだろう。
ここに義を絡める。だから、俺は生きる必要がある。


人間の存在に対して、多様な仮定が可能であるにも関わらず、『守る』ことを存在の発祥の原因としたこの、感情的な結論が意外にも気に入ってしまった。俺には到底、導き出すことのできない結論だ。帰ったら、左近にも掻い摘んで言ってみよう。そしてまた、水掛け論に終始するかもしれない。


「……、…………、……ありがとう」
「え?」
「……なんでもない。ではな、幸村、また会おう。次に会うときは、きっと江戸へ退いた家康を討つときだ」
「はい。楽しみにしています。そのときには、きっと三成殿にこの言葉、少しは定着しているかと思います」
「ああ……。また会おう」
「ええ、また今度」


『また』がないかもしれない。だが、生きると強く信じている俺はそのことを深く考えない。
『また』は自分で作るのだ。
そのとき、『また』俺は幸村に、難解な問いをするかもしれない。
今、俺は幸村に宿題を残された。『人間の存在とは相互扶助である』という幸村の結論を、いかに『俺』が解釈し、自分のものとするか。だから、次は俺が幸村に宿題を出す番だ。



人は石垣(守り)、人は城(守られ)、人は堀(傷つける)











08/19