びしょぬれの同情なぞいらぬ。
こう表現してみると女々しさがより一層際立って感じるが、自分の切羽詰った情況が浮き彫りになる。悪くはないと思った。
頭の隅で自分に言い訳するように言葉を紡いだ。現存する自分がどこかかけ離れた世界に行ってしまうような、奇妙で気味の悪い感覚。一定の流れを保ち、けして律動を崩さない時間の中で立ち尽くす形象。振り返って、縋りつこうとする自分の姿。腹立たしい。過去が腹立たしい。だからその過去を知る前の過去に縋りつきたい。あまりに無駄な望みを欲しがる自分を嗤った。
非生産的だ。なにも生みはしない。過去は単なる戒めにしかすぎない。
蹂躙しつくせ。踏みにじれ。惨めなほどに凌辱せよ。その先には虚無と甘美に塗れた未来があぐらをかいているだろう。虚栄に装飾された野心が大口を開けて全て咀嚼するだろう。えづけ。嘔吐せしめよ。全てを喰らえ、鮮血淋漓とほとばしる吐瀉物すら血肉にするのだ!

「……」

無言。哀惜じみた憐れな視線。その目が、おれは、死ぬほどきらいだ。

「哀れんでいるつもりか! ばかにするのも大概にしろ! その、嗚呼、その目。俺が哀れか? その目だ。なにを語っている。俺を、俺を蹂躙するその目! なにを考えている。なにを思考し、なにを歓喜し、なにを夢想し、なにを希望し、なにを絶望し、なにを、なにをなにをなにをなにを……」

思考を蹂躙し、歓喜を蹂躙し、夢想を蹂躙し、希望を蹂躙し、絶望を蹂躙し、啼哭を軽蔑する。すべてを軽蔑するしか俺には残されていない。
(そうと錯覚している)
知っている。
おれはだれよりもその事実をしっている。悲しいほどに、その現実を目前にしている。

「……殿、今宵は冷えましょう。早うに、」

その事実を受け入れてなにひとつ忘却しない俺は弱い。忘却は保身のための本能。その本能すら働かない。現実を見留め尚前進する俺が強いと言う。かようなものであれば、俺はこのように笑わない。
誰だお前は、誰だ、だれだ。
後ろの正面はだれがいる。俺の背中には誰もいない。誰も、誰ひとり。隣は見えない。おれが弱いからだ。俺は隣を見ることができない、振り返ることもできない、前を見据えることしかできない。
(期待した結果が絶望だったならば、最初から見ないほうが素敵でしょう)

「はっ……ははっ、冷えるか、そうか。だからなんだという。暖めてくれと言ったらそうするのか?」

誰かいるはず、いてほしい。ばかだ。なにをそんな弱気なのだ。
いるはずがない!
なにも、だれも、すべて。
目に見えないなにもかもが。目に見えるものならばふらつきもせずに済んだ。目に見えるものすら存在の確定は不可能だ。

真綿で首を絞めてくるお前は誰であるか――おれ。
おれはなにを試した?
蹂躙の度合いを計算しようとして壊れてしまった。自分に関する計算はすっかり膜に覆われて算出しにくい。何度も何度も計算するのにその度に誤算になる。無駄なことをしている。自己掲示欲。
化膿した傷を広げている。肉を掴み指を捩込み裂くように。骨すらも掴みとれ!

「左近は、必ず殿のお傍に」
「……冗談だ。もうよい、下がれ」


(びしょぬれの同情なんていらないわ、だって、冷えるでしょう?)



07/16