同じ?
違う、似てすらいない。

「秀頼を、頼む。頼む。秀頼を、頼む」

うわ言のようにくり返された言葉を思い出す。
とうとうご逝去なされてしまった秀吉様の、目。
ただ、秀頼君のことばかりを不安にしているだけで、ほとんどなにも映していない瞳がついに終焉の幕を引いた。

あの瞬間を思い出した。

あのとき、俺のひとつの人生が終わった。
俺にとって、秀吉様はすべてだった。
だが、その秀吉様の遺された御子、秀頼君、ひいては豊家万代の繁栄が今の俺のなによりの存在理由である。




壊死




終わりかけだ。
左近の、焦点があやふやな瞳を見てそう知った。だが俺は言わなかった。

「殿、お逃げくだされ」
「左近、お前は、行かないのか」
「行けないのです。この怪我では、左近は単なる足手まといとなりましょう」

左近は俺にとって、相当、大切にしたいと思っているひとだ。だが、なぜか俺は今の感情が、悲しみというものではないことを知っている。
秀吉様が逝ってしまわれたときと同じように、なんの感情もわからない。たんなる虚無が俺を、支配している。

「左近」
「殿、泣かないでくださいよ」
「泣いていないぞ」

ためしに目元を拭ってみる。しかし、たしかにそこは濡れていないし、熱も持っていなかった。
それでも左近は俺が泣いているという(むしろ一度泣いてしまいたいとも思うのだが)。

「泣いていますよ」

俺にはよっぽど、左近のほうが泣いているように見える。
いい年した大人がだ、泣きそうな顔をしている。体中血まみれで、その血が体中からあふれる涙のように見える。

「泣いていない」

秀吉様が逝ってしまったときと同じ虚空。
あのときも泣かなかった。泣きたい、そうすれば少しは楽になると思ったが、泣かなかった。だから俺は、薄情者と言われた。
そういえば、あのときも左近が俺に対して「泣いている」とひたすらに言い続けていた。

「……目、見えていないのか」
「ほとんどね。だが、わかりますよ。殿が泣いておられるかそうでないかくらい」
「嘘だな」

現に俺は泣いていない。
左近の目がもう見えないという事実に出会ったとき、悲しいということよりも、安堵の感情があった。

「殿、泣かないでくださいよ。左近がいなくなったら、誰が殿の涙を拭うんですか」
「泣いていない。いなくなったらなどという仮定は許さぬ」

意味のわからない男だ。
接するようになってから随分経つが、未だになにを考えているのかちっともわからない。
そして、俺のこの男に対する感情も、よくわからない。
嫌いなどとは思ったことはない。だが、この感情を嫌い以上のどこへ位置づけすればよいのかわからない。
今、この男がいなくなったらそれこそ永久にわからなくなりそうだ。

「左近、お前がわからぬ。お前は俺にとって、同志であると同時になんだというのだ」
「左近に聞くべきではないでしょう」

そろそろ行かなくてはならない。
いつまでも悠長にこの場にとどまっていては、俺は死ぬ。左近も死ぬ。
俺がこの場を早急に離れたとしても、結局、左近は死ぬ。
それでも、なんの感情もわからなかった。

「殿は、自分の感情を自覚するのがへたくそですな」
「いや。左近、薄情だと思われるかもしれないが、俺は、今、この状況でなんの感情も湧いてこないのだ」
「へえ?」
「お前はもうすぐ死ぬ。だが、俺にはなんというか、悲しみといった感情が皆無なのだ。お前が死んでしまっても、やはり俺は泣かないだろう。だが、お前のことを厭うているとか、そういうことではない。ただ、悲しくないのだ」
「それは、勘違いでしょうよ」

左近の手が宙をさまよった。ほとんど目が見えていないことはさっき知った。だが俺は手を貸すことをしなかった。
やがて左近の手は、俺の顔を捕らえる。冷え切っている手だった。

「さっきも言ったとおり、殿は自分の感情について知らなすぎる。秀吉様がご逝去されたときも、殿はしきりに『悲しくない』と首をかしげておられた。今と同じです」
「どういうことだ」

名残惜しげに、左近の手が俺の頬から離れる。
そして左近は、その大きな刀を支えに立ち上がった。つられて俺も立ち上がる。

「悲しすぎて、悲しみを理解できないんですよ」
「そういうことがあるのか」
「殿の涙は外に出ない。ただ、ずっと自分のなかに、溜め込んでいるだけです」
「わからない」

もし左近の言うとおりならば、俺はずっと『悲しみ』というものをよく理解できないままだろう。
自分の感情を自覚するということは、予想以上に難しい。

「殿をお慕いしております。ずっと、いままでも、これからも」
「だがお前は死ぬのだろう」
「感情は死にませんよ」
「俺を恨みはしないのか。俺の力の至らなさで、このようなことになったというのに」
「それが左近の本望です」

わからない。慕うとはどういうことだ。

「殿の涙をお拭いできぬ、不肖の家臣をお許しください」

左近は笑った。
その傷でよく笑うことが出来たな、と思った。

「では、これにて」
「さらば、だ。左近」
「ええ」






左近が死んだらしいということを知った。

やはりよくわからない。悲しみとはどういうことだ。
こんな俺を、やはり左近は「泣いている」というのだろうか。
慕うとはどういうことだ。
俺の左近に抱いていた感情は、同志以上の、なにか、特殊なものだったのだろうか。

永久にわからない(否、わかろうとしていない)。

唐突に胸が焦がれて、目頭が熱くなった。
それでも、俺は泣いていない。





07/03