そこそこに立派なほうだと思う。
 俺が寺小姓として存在している寺の話だ。
 秋には枯れ葉を片付けるのが億劫になるほどの、だだっぴろいだけの庭をはじめとして、雑巾がけすると考えただけでも肩がこるような凶器とならんばかりの廊下。誰が上るのだろうと考えさせる石の長い階段、そしてガタガタと揺れながら人間を飲み込もうとせんばかりの本体。
 しかし俺はここが嫌いではない。
 階段が舌、門が口、庭が胃で……、あとの詳しい身体の中身については俺の勉強が足りないのか知らん。ともかく、そういう、寺というには妙などうもうさを持っている建物が嫌いではない。
 どうしてただの寺であるはずのこの建物が、どうもうさを持っているように思えるのかはよくわかっていない。俺の漠然とした印象がそう感じさせているのだろうかな。だが別に理由なんて特別必要なものじゃない。ただ、この寺は他の寺にはない奇妙なものがあるように思っているだけだ。
 風にさらされる開放的な廊下はたまにぐにゃりと曲がってもおかしくはなさそうだ。足元を取られて中庭に放り出されればそこから地中深くに連れて行かれそうでもある。一見なんの変哲もない畳はいつか勝手にめくれあがって対象を挟み込んで、そのままぶっつりとつぶしてしまいそうだ。極めつけは外出も侵入も阻むように閉じた重い門。
 実際にその場面に出くわしたことはないが、『こうなってもおかしくない』と思えるような場所である。
 そんな場所であるから、中にいる人間もまた奇妙なものだ(だがあまり興味はない)。


 今日の俺は中庭で地面に溶かされそうだという不安を抱きながら枯れ葉を集めていた。
 小姓仲間の痩せぎすの男がいる。そいつと俺は仲が悪い。数えて同じ年のそいつは周りと比べて背が高い。対して俺は低いほうだ。そのことをからかわれるから俺が食ってかかる。もう少し大人になろうと思う。
 つま先が冷えて感覚が鈍くなってきたので、体の芯が熱くなるようなことを考える。怒りや憤りというものは人間の体温を上げることがあるらしいと知ったのは、つい最近だ。それでも、当人が目の前にいないことにはどうにも感情は高ぶらない。
 あの男、この寺に食われてしまえばよいのに。


 時折、俺はそう考えては自分の腹をさする。
 俺はこの腹にどうもうな獣を飼っているのかもしれない。ふつふつと煮えたぎる血潮を持つ獣だ。産まれたときから飼っているのか、それともこの寺にやって来て、そいつが俺の中に生まれたのか。そのどちらかは知らないが、少なくとも言えることは、その獣はまだ赤子であるということだろう。
 俺はその赤子の獣を後生大事に育ててゆくことになるだろう。
 いつか俺の身体もその獣も熟したとき、俺がどのような人間になるのかは知らない。人間と言えるのかもわからない。
 ただ、俺はこの獣に餌を与えるために思考し、行動し、生きているわけではないということが、一番大切だということを忘れたくはない。






いとしい子よ








06/11