「三成、どうした?」
兼続が心底不思議そうに俺を呼んだ。無理もない。ほんの今さっきまで適当な世間話をしながら歩いていたのが、突然立ち止まってしまったのだから。
なにも、立ち止まりたくて立ち止まったのではない。立ち止まらざるをえない状況になってしまっただけだ。
「イヌと……、目が合った」
それは毛深いイヌだ。長毛種なのか、全体的に毛は長い。耳の下から顎にかけてのモミアゲにあたる毛が異様にフサフサしている。黒い。大きい。野良イヌ。
ザッとイヌの特徴を羅列してみた。
イヌと聞いて目を輝かせた兼続は、黒いイヌを抱き上げてクルクルとその場でステップを踏み始める。兼続は無類の動物好きで、とうとうブリーダーにまでなってしまった男だ。
「イヌ! イヌだぞ三成!」
「俺がお前にそれがイヌだと教えたと思うのだが」
「かわいい! こいつぁ、利口そうな顔立ちをしている。まだ子犬かな? きっとこいつぁ大きくなるぞ。あ、こいつオスだ!」
だめだ。ちっとも聞いちゃいない。
イヌに頬ずりしたり、高い高いをしたり、額にちゅうをしたり、兼続は落ち着きがなくなった。イヌもイヌで、どうして抵抗しないのやら。嫌なら嫌と言えばいいのに。
「兼続、そのイヌ、いやに大人しいが」
「そうだな。怪我をしている様子でもないし、ちょっと痩せている。腹が減っているのだろう」
野良イヌだもんな(イヌも大変な世の中だ)。
気まぐれに人間がエサを与えたりするから、それで食いつないだり、ゴミ置き場でも漁っていたのだろうか。ちょっと薄汚いし、飼い犬ではないだろうし(兼続は気にしていないが)。
まあこれからは兼続が絶対に面倒を見るだろう。野良のイヌネコを見つけたら絶対に自分の家に持ち帰って愛でる男なのだ。おかげで兼続の家はいっつも騒々しいし、なんだかケモノくさい。
「しかし困ったな……。慶次に『しばらくはイヌネコをひろってこないでくれ』と頼まれてしまっているのだよ」
「まあ、そう言いたくなるのもわかる」
何匹いるんだっけか。ネコは気ままに出かけるから正確な数字は知らんが、イヌだけでも十は超えていたはずだ。
「……」
「お、おい兼続、なにも泣くことなんかないだろう……。なんかこのイヌ、強そうだし、ひとりでも生きていけるさ」
「ダメだ三成。一度ぬくもりを知ってしまったならこの子はずっとそれを忘れられないのだ」
「なら最初から抱かなければいいだろう!」
少し自分勝手じゃないか。ぬくもりを覚えさせることにためらうのが遅すぎる。
そして、嫌な展開が待っていそうだ。
「三成、お前の家でこの子、飼えないか?」
「……」
ヒクッ、と顔の筋肉が引きつった。
イヌは期待に満ちたような、どうでもよさそうな目で俺を見つめている(どうでもいいが、舌をしまわんか、舌を)。
「これもまた義であるのだ」
イヌの目があまりにキラキラ輝いているものだから、しかたなく引き取ることにした。このパターンは実を言うと二度目だ。以前はネコだったのだが、どこかへ行ってしまった(嫌われたらしい)。
兼続は子犬だと言っていたが、意外に大きい。俺の胴体より少し小さいくらいだ。お前はどれだけ大きくなるつもりなのだ。
「名前を、考えなくてはな……」
黒いそのイヌを胸に抱き、家のドアを開ける。
イヌはしっぽをバッサバッサと振っているから、妙にそこらへんがこそばゆい。吐息が腕にかかり、むず痒い。
「ポチでいっか。お前はポチだぞ。ポチ。ポチ、ポチポチ、ポーチ。覚えろよ? ポチだからな」
我ながら安直だとは思うが、特別に凝った名前にする必要もない。覚えやすく、呼びやすいのが一番だ。
すると、ポチは「ばうっ」とひとつ吠える。うむ、わかったのかな。
鍵を閉め、ポチを床に下ろそうとしたが、小汚い。こんなカッコで家中走り回られたらたまったものではない。そこで風呂場へ直行することにした。
風呂場のドアを閉め、ようやく床にポチを下ろし、ひと息つく。やはり生き物は重たい。
シャワーを弱めに出すと、ニオイをかごうとしていたらしく、ポチが大きく驚いて逃げてしまった。
「あ、こら、逃げるな」
好きではないのだろうか。だが汚いよりはきれいだ。
しっぽを掴み、引き寄せる。ポチはイヤイヤと逃げ、走ろうとしているが、つるつる足元がすべるだけだ(トレーニングなんかにつかうあれみたいだ)。
シリも汚い。まずシャワーをシリにかけ、シャンプーで洗ってやる。イヌ用のものなんてないからもちろん人間のものだ。毛だし、シャンプーでいいだろうという俺の判断はなかなかのものだと思う。
しっぽを掴んでいないと逃げようとするから、片手で洗うのだがこれまた難しい。毛も絡まっているし、強引にすると痛いだろうからめっぽう気をつかう。
そのまま足もこすり、泡を洗い流す。するとポチはこともあろうか、俺の目の前で体をブルブルと震い、水を弾き飛ばしたのだ。
「あほが!」
さっさと終わらせてしまおう。
全身にシャワーをかけ、シャンプーで体中ごしごしと洗ってやる(しっぽの根元をこすってやると気持ちいいらしいことがわかった)。
デコや耳も少し洗い、モミアゲの部分も泡立ててやり、一気に流し落とす。流れる泡は茶色い。そうとう汚かったようだ。少しくすんだ黒い毛だったが、つるつるとしていそうな美しい黒になった。
そしてポチはまた、体をブルブル震わせる。俺はまたもその水しぶきを避けることができなかった。
「……あほが!」
デコピンしてやると、ポチは勢いよく振り返り、不思議そうに俺を見上げる(お、俺はちょっと叱っただけ、だぞ)。
濡れた体が気になるらしく、手の甲を何度か舐めている。
ノドがかわいているのか。そういえば腹が減っていると兼続が言っていた。
俺の服が濡れないように、体から離して抱き上げ、タオルでポチの体の水気を拭き取る。
「……まだ濡れてる」
どれだけ拭いても、乾かない。まあ、人間の髪もすぐに乾くものではない。
ドライヤーを探すために、少しだけポチから目を離し、洗面台のあたりを探る(普段、ドライヤーなんて使わないものだから)。すると、ドタドタドタ、と不吉な足音が響いた。
ポチがいた場所を振り返る。……いない。
「ポチィ!」
濡れた体でどこへ行ってしまったのだろう!
ドライヤーなんてそっちのけ。廊下に飛び出し、ポチがどこへ行ったのか一瞬のうちに考える。
ポツポツと水の足跡があることに気付く。リビングの方向だ。
足跡を追うようにリビングへ向かい、部屋中を見渡した。
「ポチ!」
ポチは俺のお気に入りのクッションに埋もれ、体をこすり付けている。それがまた妙なカッコウなのだ。頭からこすりつけ、仰向けになってジタバタとしているのだから。
俺のクッションはもれなくイヌくさくなり、びしょぬれになっている。
「……はあ」
イヌが十匹はいる兼続の家に住んでいる慶次の苦労を想像したら、ため息が止まらない。
09/21