俺ァ、泣く子犬も黙る雑種のお犬様だ。
別に黙らせるつもりはないんだが、俺の顔があまりに怖いモンでかってに泣き止んじまうらしい。おかげでベビーシッターとして定評のある野良犬だ(まだ俺だって若いのになあ)。
そんな俺だが、最近はどうも少子化というヤツの影響で、出張ベビーシッターとしての仕事が少ない。そのせいか、近頃はずっと腹が減っている。ほら、今こうしているあいだにも、グウってな。
だが、俺は人間には媚びないさ。人間は気まぐれだから、いじめたかと思えばメシくれたり、ワケがわからん。ワケのわからんものには世話にならん。
……だが、さすがに腹が減りすぎた。なんだか頭が痛くなってきた。
そんなときに、ひとりの人間が通りかかった。それだけなら珍しいことでもない。そいつは振り返って、俺をマジマジと見つめてきよる。
なんだこいつァ?
おもちゃを見つけた人間のコドモみたいに、無邪気な目をしているわけでもなし。薄汚い野良犬の俺を哀れむ目でもなし。ただ、そこらへんの石でも見ているような目で俺を見下ろしている。
……ふ、百戦錬磨の俺が、ビビる? んなワケねえだろう。
その人間の顔を見上げると、そこらのクソガキやシワクチャのオバハンとは違い、オトナのイヌみたいに、りりしい顔をしている。
人間にもキレイな顔立ちをしたヤツがいるのか。あまり興味がなかったんで知らなかった。
連れの人間が、りりしい顔の人間を呼んでいるらしい。一度俺から目を離し、そいつはなにかを言った。
言っとくが俺はイヌだ。人間の言葉なんざ知らねえな。
「イヌ! イヌだぞ三成!」
少し会話をしていたと思ったら、いきなり連れのほうが叫びだし、俺を抱き上げる。勢いがありすぎて、噛みつくひまもない。俺としたことが。
それから人間ふたりはゴチャゴチャ話している。俺は、連れのほうにぐるぐる回されたり、高いところへあげられたりとしていてそれどころじゃねえ。なんて人間だ。
「兼続、そのイヌ、いやに大人しいが」
りりしいほうが、連れになにか言う。言葉はわからないぶん、声の調子でどんなことを言っているのか想像がつく。
これは多分、俺を心配しているのだろう。そりゃそうだ。こんだけ振り回されてるんだ。
「そうだな。怪我をしている様子でもないし、ちょっと痩せている。腹が減っているのだろう」
意外にも、連れのほうも心配そうな声でなにかを言っている。
俺らみたいなイヌを遊び道具程度にしか思わないクソガキかと思ったが、そんなこともないようだ。それによく注意してみると、俺を抱く手が優しい。触りかたでもやはりわかるものだ。
それからふたりは、なにか、不安そうな声で話す。俺は別に噛みつきゃせんのだが。
すると突然、俺を抱いている連れのほうが小刻みに震え、涙をこらえるようなしぐさを見せた。りりしいほうは少し焦っている(ケンカか? ならヨソでやってくれ)。
「お、おい兼続、なにも泣くことなんかないだろう……。なんかこのイヌ、強そうだし、ひとりでも生きていけるさ」
「ダメだ三成。一度ぬくもりを知ってしまったならこの子はずっとそれを忘れられないのだ」
「なら最初から抱かなければいいだろう!」
りりしいほうが怒った。俺を指差しているから、どうやら俺が関係しているらしい。
俺を連れ帰るつもりか?
人間に飼われているイヌの話はずいぶん聞いてきた。食いっぱぐれることは滅多なことじゃないらしいが、そのぶんなにか奉仕をしなくちゃならんらしい。庭に埋まっているお宝を「ここほれワンワン」なんて言いながら教えてやらにゃならんとかな。タリイだろ普通に考えて。
でも最近不景気だしなあ……、宝は見つけられんかもしれんが、少しくらいなら役に立ってやってもいい(特技、ベビーシッターだぜ)。
「三成、お前の家でこの子、飼えないか?」
「……」
りりしいほうは、さっきとは違ってイヌを見る目で俺を見ている。なんだかうまくやっていけそうな気がする。
はい、前言撤回だ。それまでのいきさつはこうだ。
人間というものはけったいなほどにデカイ家っつうのに住んでいるとは知っていた。このりりしいヤツもそうらしく、俺をその家に連れていった。
そして入るなり、俺に向かってやたら『ポチ』というのだ。これは、名前ってやつなのか? 今まで野良でいたから名前をつけられたことがない。名前、というのは必要なのかは知らないが、悪いもんでもない。
だが、ポチってセンス、どうなのか? いや、名前のセンスなんぞ知らないが、単純にセンスがいいのかどうか気になるだけだ。まあ、誰も答えちゃくれないんだが。
そこで、俺もこのりりしいやつに名前をつけてやることにした。イヌが飼い主に名前をつけることは、意外と珍しいことじゃないようだ。呼ぶときに不便だろうが、と言われたことがある。
……。
「トノ!」
よし、お前は今日からトノだ。いっちょ腹くくって、よろしく頼むとしよう。
そこまではよかった。
いい加減に俺は地面を走りたくてしょうがない。だがトノは俺をなかなか下ろさない。そのまま家の中に上がって、変なニオイのする部屋に俺を放り込んだ。
そして、白くて長いなにかを取り出し、俺に向ける。
なんだこれは。そう思い、ニオイを嗅ごうとしたら、いきなり水が飛び出してきた。
なんぞこりゃ! とんでもねえ武器じゃねえか! ああだめだ、トノとは相性があいそうにない。だって、逃げる俺のしっぽを掴んでずりずり引き寄せてまで、水をかけるんだ。とんでもねえやつだ。
しかも、いきなり俺のシリをさわるんだ。もぞもぞするし、なんか変に白いモコモコしたモンがある。……こいつ、俺の体が目的か……!
聞いたことある、あるぞ。人間の中には俺ら動物に対し、鬼畜の所業を行うやつがいるってな。
水をかけられ、白いモコモコが流れる。……ちっ、シリが濡れちまった。水を飛ばそうと体を震ったら、トノが怒った。
そして今度は全身にモコモコだ。とんでもねえやつだ本当に。
……だが、うむ。しっぽの辺りを洗うときの力加減はなかなかのモンだった。あそこらへん、かいてもらうと気持ちいいんだこれが。
そしてまた水で全身を流される。少し腹が立ったからまた体をブルブルさせてやった。トノはやっぱり怒る(俺のデコをピンとかはじきやがる)。
そんなわけで、トノとあまりうまくいきそうにないな、と思ったから前言撤回したわけだ。
トノは俺を抱き上げ、白い布で俺の体中を拭く。これまた力加減がなかなかにうまい。前言撤回を前言撤回しようか。
だがトノはすぐにそれをやめてしまい、この場から離れてなにかを探し始めたようだ。
野生の勘、とでも言おうか。絶対に俺にとってよくないことが起こる。
そう信じた俺は、トノが見ていない間にその場を逃げることにした。この部屋を出てすぐに分かれ道だが、左に行くことに決めている。そっちが出口だからだ。
だが、出口は閉まっている。しゃんねえから行けるところに行くことにした。
入ったそこはさっきいた場所より広く、また別のニオイがする。鼻がツンとする。俺たちイヌってのは人間よりも鼻がいいらしい。人間にはちょうどいいのかもしれんが、これはキツイ。
しかし、テーブルという四足の木のかたまりの向こうに、布の丸いモコモコしたものを見つけ、俺はそこに飛び込んだ。
濡れた体を拭くには、こうしてこすりつけるのが手っ取り早くていい。
……そういや、このモコモコ、トノのニオイと同じニオイがする。
ふ、マーキングマーキング。
「ポチ!」
と、トノが大声で叫んでやってきた。
だがそんなことはおかまいなしだ。濡れた体は少しむず痒い。だからこうしてこすりつけていないと、イライラするもんだ。
「……はあ」
トノはため息をついた。
09/21