賢いとも愚かしいとも言える



 彼は人並み以上に言葉を知っているつもりだった。その彼も、自分の職業をなんと表せばよいのか、どのような名詞を使えばよいのか、言葉が見つからないでいた。別に必要と感じなかったから熱心に探さなかっただけかもしれない。組織の中ではそのような名詞など必要なく、ただ『四十課』という呼び名があればよいからだった。
 ただ、彼はたまに知りたくなった。客観的に見て、その職業はどのような名称を用いれば適切か。
 その名称を知れば、彼は自分という存在もよくわかるはずだと考えていた。









 オフィスの伝言板には、三成の字で『外出中』と書かれていた。時間帯としては昼休みに値する時間のため、誰にも文句を言う道理はない。ただ、それを眺める兼続はなにか言いたげだったが、本人がいないのでは話にならなかった。
 そのころ三成は、街中を悠々と歩いていた。
 休日の昼間は、若い人間であふれかえっている。誰もが似たような格好をしている。
 その中で、黒いスーツの三成は異様だった。スーツ姿の人間は幾人かいたが、ストライプのものであったり、ワイシャツの色が爽やかな水色であったり、ネクタイに凝っている。しかし三成は無地の黒いスーツで白いワイシャツ、黒のネクタイである。葬儀に赴くような姿だった。
 周囲に一瞥もくれず、三成はまっすぐに歩いていった。その先には、幸村の家があった。
 幸村の家は静かだった。家人はでかけているようだ。
 家の中に入り、三成はそのように考える。しかし迷わず階段をあがり、幸村の部屋に入った。
 部屋の中では幸村が、前回の訪問時と同じように机に向かって勉強していた。参考書の類は以前よりも乱雑に置かれ、勉強が切羽詰っているように思われる。
 三成は前回と同じようにベッドの隅に腰掛けようとしたが、そこも参考書で埋もれていた。しかたないので、部屋の隅に立って幸村を眺めることにした。三成の隣に本棚あったため、それらを物色したりしてしばらくの時間を過ごす。
 本棚の中にはマンガが多く並んでいる。そのどのタイトルも三成は知らなかった。そして興味も出なかった。端っこにわずかな文庫本があったのでタイトルを見たが、それも三成の興味を惹くにはいたらなかった。三成は新しいものが嫌いだった。
 結局読みたい本も見つからず、ベッドの上に広げられている参考書を眺めることに徹した。その内容は、動物の反射について述べているものだった。いわゆる生物と呼ばれる分野である。三成は開かれたページのみを読み、首をかしげた。それは内容に対する疑問よりも、不審に近いものだった。
 三成が他の参考書に目を移そうと、身動ぎしたとき、幸村はハッと振り返った。
 あまりに敏捷な動きだった。思わず三成が驚いてしまったほどだ。そして幸村も三成に負けないほど驚いていた。
 幸村のほうが若干回復が早かった。笑顔を浮かべ、

「またいらっしゃっていたのですね、死神さん」

 とまで言った。

「死神?」

 なにをふざけたことを言っているんだ。
 音には下さなかったが、三成はありありと顔に表した。その三成の苛立ちはある意味で正当とも、不当とも言える。三成は以前に幸村に名乗った。しかし、三成はその後すぐに忘れてよいと言った。だから、幸村が三成のことをなんと呼ぼうが関与してはいけないのである。
 無言による三成の圧力に、幸村は気付いたのか首をかしげた。

「違うのですか?」
「死神なんていない」

 即座に三成が否定したが、幸村は悪びれもせずに「おかしいな?」と言いながら頭を掻いた。

「だって、私が死ぬって言ったじゃありませんか。私の魂とか取りに来たのでしょう?」
「それはマンガの読みすぎだ」
「じゃあ、何しに来たのですか?」

 三成は言葉に詰まった。
 何をしに来たか。それが明確にわかれば兼続との水掛け論もなかっただろう。あれこれとそれらしい理由を並べるのは簡単かもしれなかったが、それではなんの意味もなかった。

「用があるから来た」
「ここに来ることが用、でしたっけ」

 その問いに対し、三成は答えなかった。子供のような反抗心だ。無性に自分の言葉を先取りした幸村が憎らしく思えてしかたなくなったのだ。口を開けば子供じみたことを言い返すように思われたので、三成は口を閉じていた。
 返事が無いことに幸村は首をかしげたりなどしなかった。むしろ、彼はまったく別のことを思案し、次の瞬間には口を開いていた。

「死神って、なんとなくシワクチャのおばあさんとか、黒いフードを被ったガイコツで、大きなカマを持っているイメージがありましたけど、全然違いますね。死神さんは、スーツだし、普通の人ですね」
「だから、死神じゃ……」

 そこまで言いかけて三成は気がついた。
 以前幸村に言ったことを思い出したのだ。自分が人間であるか否かは好きに選択しろ、と。彼が三成を死神と呼ぶのはまったく問題のないことだった。そして三成は、なんと呼ばれても気にしないつもりでいた。
 しかし死神と呼ばれるのは奇妙な感じがあった。三成は、幸村の言ったように魂だとかそんなものを取ったりしない。

「死神じゃないんですか? じゃあ人間なのですね?」
「……どちらと考えるのもよい自由を俺はたしかに言ったが」
「人間だったら、通報しなくちゃなりませんね」

 まっとうに考えれば、三成は不法侵入者だった。
 だが、幸村は勘違いしている。通報されても三成にとってなんの痛手にもなりえない。むしろ選択の自由が不自由になることだった(幸村はそれを残念がるとは思えなかったが)。
 彼の選択の自由を侵害する気などさらさらなかった三成は、何も答えなかった。まずい、だとか、どうぞ、という表情も出さなかった。ただ平然と幸村を見返している。
 幸村は三成という存在がわからなくなった。通報と言えばなんらかのアクションを起こすと想像していたためだった。

「冗談です。死神さんは普通の人には見えそうにないです」
「さあ、どうかな」

 心情を悟らせない、やわらかな笑顔に三成は適当に返した。

「さて。死神さん改めて三成さん。何のためにここへ来たのですか?」

 その問いに三成は考えた。
 先に幸村に言われてしまったが、前回同様『ここへ来ることが用』のようなものだった。しかし改めて幸村が問い返したということは、『なんのためにここへ来たか』という意味になる。それに対し、前回のように『用があるからここへ来た』と返すのは芸がないように思われた。なにより、幸村が納得しないだろうと考えた。
 三成の目に、先ほどの生物の参考書が目に入った。

「あえて言うならば、この参考書が不思議だから来た」
「は?」

 幸村は思わずすっとんきょうな声をあげていた。
 彼は三成が自分のことを明かすのではないかと思っていた。それだけに、自分が使用していた参考書を指差されるとは思ってもいなかった。

「これは動物の条件反射について述べている。しかし、この参考書には有名な話が抜け落ちている。不思議だ」
「……それは、ここに来てからの疑問でしょう?」
「パブロフの犬を知っているか。一種の洗脳のようなものだが、非常にわかりやすい例だというのに」

 まったく話が噛み合わなかった。幸村はいささか憤りを覚えたが、三成は真剣だった。

「死神さん、これは生殺しってやつです。死神さんは一方的に私に死の宣告をしましたが、それがいつだとは言わなかった。今日ですか、明日ですか、それともずっと先の話ですか。わからないというのは案外怖いものです。今だって勉強の途中なのです」
「ほう。どうせもうすぐ死ぬなら、死ぬ前くらいは勉強なんてやめて、パッと遊んでみたいとか思うのか?」

 三成の言葉には嘲りのようなものすら感じられた。けれどそれに臆することもなく、幸村は否定した。

「違います。もし、死んでしまうまでにもう少し時間があるのでしたら、もっとたくさんのことを知っておきたいと思うのです」

 少なくともその言葉に、三成は関心を示した。勉強を嫌う風潮のある中で、めずらしいと思ったのだ。たいていは、学校の勉強などムダと逃げ道を作ってそこへ駆け込む人間が多い。勉強が好きだと言う人間は奇妙なものを見る目で見られるのだ。
 幸村とて、本来はそれに近い考えを持った人間だった。しかし、いざ考えてみると、自分は世にある学問のほとんどを知らないことに気付いた。そして唐突に、それを知りたいと思うようになったのだ。

「まあそれは悪いことではないが、お前はどうして俺の言ったことを信じると選択したのだ?」

 それが三成には解せなかった。
 突然現れた奇妙な男の言うことを幸村はまるで信じきっているように見える。しかもその男の言う内容は幸村の死についてだった。普通の感覚からしたら、どちらも正気の沙汰とは思えないだろう。

「本当のことと思ったほうが、いいではありませんか」
「そうか? 普通は、嫌がる。死にたくなどないとかわめいたり、怒ったりする。死にたがる人間もたまにいるが、たいていは不満に思う」
「嘘だと思って、本当に死んでしまうよりも、死ぬと思って死ぬほうが準備ができていいですよ?」
「そういうものなのか」

 それもまた三成には解せなかった。





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お久しぶりです