妥協ができない人
彼は自分について多くのことを理解していたが、何も理解していなかった。
理解しがたいことと理解できることは紙一重である。理解しがたいことなんて何一つない、だが、理解できることも何一つない。決して相容れないものではない。それらは同一である。
「こんな時間にやってきて、残業でもしていたのかと思ったら、お前はバカだな。誰だっけ、自分は個ではなく団体の一端。機械のように感情もなくウンタラって言ってたのは」
「間違いなく俺だな」
呆れて言葉もない、と言いたげだったが兼続は非難するように喋った。
三成は頬杖をついて、逃れるようにそっぽを向いていたが兼続の追求は容赦がなかった。
「お前のやったことは規律を乱すことだ。紛れもなく、団体ではなく個を優先した。全か一か、一か全か。本当に極端なやつだ」
「もういいだろう。文句を言っても変わらん」
「だがこれは死活問題だ。お前は、対象に死を宣告した挙句、個人的な接触を図り、仲良く名前を教えあって。バカか、バカだ」
「教えあっていないぞ。俺は相手を一方的に知っているのに相手が知らないのはフェアじゃない。それにフォローしておいた」
「フォローって?」
「お前は俺を覚える必要はない、と言っておいた」
「……それで、相手が忘れてくれるとでも?」
「思わんが、フォローしておいたのだ。文句を言われる筋合いはない」
そんな子供の言い訳、通じるか。兼続はあえてその言葉を飲み込み、無言により相手を非難した。
「……そんなに、俺が悪いのか?」
「……悪い、というか、懲戒処分モノではなかったか? ハンドブックにそんなことが書いてあったが」
「免職されたらそのときはよろしく頼むぞ」
「私はヒモ男を世話してやるほど酔狂でもないんだがな。それ以前に、お前、職を失うということはだな……」
「知っている」
兼続の説教は始まったばかりだったが、三成はすぐに遮った。兼続の説教は格別に長い。粘着質というわけではないが、話が脱線しがちで、最後には説教ではなく議論に達していることも多い。
汗をかきはじめたコップを眺める。中身は炭酸飲料のため、気泡がいくつもへばりついていた。
「まあ待て兼続。これは親告罪だ。俺とお前が黙っていれば……」
「甘い」
「そうか?」
「ああ、甘い。角砂糖よりも甘い。黒砂糖以上だ。甘すぎて私は吐き気と頭痛がしてきた」
「それほどに甘いか、そのカフェオレは」
「わざと話を逸らそうったって、そうは問屋が卸さない」
二人とも、今日は珍しく酒を酌み交わしてはいなかった。
酒はストレスから一時的に解放してくれるものではあったが、続けて呑むものではない。三成はジンジャエールを、兼続はカフェオレを飲んでいた。
「三成、悪いことは言わん。それは別のやつに回せ。お前にはムリだ」
「ムリではない。俺はいくらでも、何度でもやってやる」
「じゃあ、どうしてそんな行動を取った?」
「……」
三成はカバンからタバコを取り出し、一本くわえた。備え付けの灰皿とマッチを引き寄せ、火をつける。
タバコの煙に兼続は嫌な顔をしたが、三成はあえて吸った。
「私はタバコが嫌いだ」
普段は兼続が嫌がるから、と、兼続といるときは自制していたが、三成はどうしても吸わなくてはならないような気がしていた。
煙を吐くことによって、人工的にため息をつきたい。脳細胞を殺し、考えることを少しでも休みたい。理由は様々に考えられたが、どれも言い訳で、単なる依存だった。
「幸村に似ていたんだ」
煙を眺めながら、三成は続ける。
「まるでそのままだった。ひどい偶然だ。笑えるだろう。ただ、仕事として様子を見に行っただけなのに、見ていたら話してみたくなった。とはいえ、俺が一方的に喋っていただけなんだが」
「……やっぱり、四十課は難儀だな」
「声も似ていたし、表情も似ていた。髪も、体格も似ていた。勉強に熱心な姿も似ていた。不器用で、なにかを覚えるのに時間を使うところも同じだった。最初は見たらすぐに帰ろうと思っていた。でも、色々話してみたくなった」
「……やはり、それは別のやつに回せ。お前、そのままだと、喰われるぞ」
怖いほど真剣な表情で、兼続は言った。心底三成を案じているが、それが最善とも思えていなかった。けれどもそう言うしかなかった。
「そろそろ潮時ではないか、と、思う」
「それは」
「惰性にこの仕事を続けて、俺は何かを得るだろうか。何も得ない。いつまで続けるのか? いつまでも続けるのか? 果てはあるのか? なにもかも忘れて、やり直したほうがずっといいだろう。退職願が受理されないのならば、見逃せないほどのミス、不正をするしかなかろう」
「お前の矜持がそれを許すとは思えんがな」
「もちろん許せない。だが、俺はいつまでもこの状況に身を置きたいわけではない」
「……さてどうしたものか。私はお前を思い止まらせる言葉を知らないようだ。友として以前に、義を考えるとお前の思考は非常に危険だ。だからどうにかして、お前の心に響く言葉を知りたい」
「まるど口説いているようだな」
「茶化すな。私は本気だ」
「……たちが悪い」
熱心に語りかけたが、三成は聞き入れなかった。
三成が自分の意見を人に言われてそう簡単に変えるわけがない。そうと知っていた兼続はとうとうため息をつき、言葉を探すのをやめてしまった。兼続も頑固なほうだったが、三成にはとうてい敵わない。三成に意見を捻じ曲げさせるためには、気が遠くなるほどの時間と、大量の言葉と、相応の説得力が必要だった。
しばらく二人は黙り、考えていた。
唐突に沈黙を破ったのは三成のほうだった。
「兼続、お前が俺の立場だったらどうしていた?」
「さあ。飽くまで推測だが、同じことをしていただろう」
「そうだ。これもまた飽くまで推測の域を出ないが、俺がお前の立場にあったならば、同じことをしていただろう。これは、その立場に立たないと理解しがたい問題なのだろう」
「そう思うのなら、私の気持ちを汲み取ってくれ」
「お前が妥協しろ」
それから水掛け論に興じ続け、何の進展もなかった。
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