邂逅
彼は人を絶望させるのが仕事だ(あるいは幸福にする)。
人の流れは駅に向かい、せわしく流れていた。今時分は終電も近いため、時間を気にしながら小走りになる人も多い。
その間を縫うように通り抜けていく三成は、鬱陶しさに空を飛びたくなった。人が多いと言えど、よほどの理由がないかぎり人にぶつかって進めないということはないし、難癖をつけられるなどの困ることなどなにもなかった。それでも、人の多さに辟易している。
ようやく中心部を抜け、人もまばらになったころ、彼は目的地に着いた。
あまり大きくはない建物が彼を阻む壁のようだった。決して物理的に阻むわけではなく、精神的で、象徴的な壁だった。
表札を確認し、彼は中へ入った(そうだ、彼はなんのアクションも起こさず、ただ入った)。
ひっそりと静まり、薄暗く、家人はすでに床についていることが知れた。
彼は階段を上り、一つの部屋の前に立った。ドアの隙間から光が漏れ、この部屋の主はまだ起きていることがわかる。彼はその部屋に入った(もちろん、ただ入った)。
部屋に入って、右手の奥にベッドが存在し、奥に机がある。クローゼットは左手の奥にあり、中から服が雪崩れを起こしている。入り口のすぐ右側にはスリムな本棚があった。入りきらないのか、マンガが積み重なっていた。
部屋の主はラフな部屋着で机に向かって熱心に勉強をしていた。机はちょうど奥にセッティングされているため、こちらに背を向ける形になっている。
参考書や教科書が机付近の床や、ベッドに開いたまま置いてある。
三成は黙ってベッドの隅に腰掛け、部屋の主を見た。
いささか眠たげに目を擦りながら、参考書をとっかえひっかえし、黙々と勉強を続けている。
しばらくその状態が続き、ようやく部屋の主がひと息いれようと大きく伸びをした。もう寝ようと思ったのか、一休みいれようとしたのか、気分転換にマンガを読もうとしたのか、とにかく彼は椅子から立ち上がり、振り返った。
「……え?」
彼は三成に気付き、間抜けた声を出した。
「真田幸村だな」
「……え?」
「幸村だろう?」
三成に問い詰められ、彼は声も出せずにただ頷いた。
幸村は対処に困っているようだった。叫ぶか、通報するか、追い出すか、対話を試みるか。とにかく、それらがない交ぜになったため、幸村は沈黙を守った。
「なんの勉強をしているのか?」
自分のことを説明するわけでもなく、三成は幸村の勉強に興味を示した。
困惑した幸村は、無言のままベッドの上に広げられたままの参考書を指差した。三成はそれを覗き込み、なんだ、とため息をついた。
「こんな簡単なもののために、これほど遅い時間まで勉強しているのか?」
それは呆れだった。
幸村は困惑を深め、何も答えられなかった。三成を発見したときの体勢のまま、目をそらすことも恐れ、身動ぎ一つすることもためらわれ、声を発することもままならなかった。
その中にあるのは、純粋な疑問のみだった。
いつの間に自らの部屋に入った存在に対する恐怖や、勉強を簡単だと呆れられたことに対する憤りや劣等感はない。彼は誰だろう、なぜここにいるのか、それが疑問だった。
無言のままの幸村に、三成は眉を寄せたがそこには触れないことにした。
「……さて、お前の疑問に答えてやろう。まずお前は、どうして俺がここにいるか気になっているだろう。それは用があるからだ。まあそんなことではなくて、どうやって気付かれずにここまで来たかが気になっていることだろうが、そこは気にせんでいい。次に、俺は誰だと思っているだろう。なぜ自分の名前を知っているのか。俺は三成だ。別に俺の名や顔を覚える必要はない。別に俺はお前に記憶してもらうことを望んでなどいないし、お前とて俺のことを記憶したいとは望まんだろう。双方の主張が一致したので、覚える必要はない」
ひどく回りくどい、演劇がかった口調で三成は喋る。
幸村は一言も発さず、唖然と三成を見ている。
「他に疑問があるとしたら、なんだろうか。俺は人間か否か? 答えは簡単だ。フィフティーフィフティー。俺は人間だと思っているがお前はそう思わないかもしれない。これは自由だ。思想の自由だとか表現の自由と一緒で、他人を生物学などを介さず、人間と思うか否かの自由だ。お前が俺を人間とは思わなくても別に怒らん。勝手にしてもらおう。でも一つだけ言っておこう。これは他人の自由を侵害することにあたるだろうが、これだけは俺の名誉にかけて言っておく。俺を幽霊だとかそんな、くだらんヒラと一緒にするなどと、決して考えないことだ」
幸村の頭には、先ほどまで勉強して詰め込んだことが音も立てずに抜け落ちていった。代わりに、三成の長々とした回りくどい口上が頭のほとんどを占める。それらを噛み砕き、理解するのに若干の時間を必要とした。
実際のところ、幸村の頭を占めていた疑問というのはたいした数ではなかった。ただ、その質量が平均を上回るものだったために、その疑問にあっさりと答えられてしまうと急速に頭の中に空き容量ができてしまい、何かを考えるのに時間を要した(その空き容量に答えと戸惑いと解釈が入り乱れているのだ)。そのうえ、疑問に思いもしなかったところまで三成が言ったために、幸村は混乱を極めた。
パンク寸前の幸村に気付いた三成は、一旦喋るのをやめた。有機物の聞き手がいないからには、彼の言葉もまったく意味を成さない。
「ふむ。やはり情報処理能力はさほど高くないか」
まったくの濡れ衣だったが、三成にとっては当然だったので本人に悪気はなかった。
「そろそろ落ち着いたと見て続ける。次の疑問だ。先ほど俺は、用があってここへ来たと述べたが、俺は何の用があってここへ来たのか。これが気になっているのではないか。違うか?……まあいい。用というものは簡単だ。ここに来ることが用なのだ。ここに来る理由に、用がある、とも言えるし、ここに来ることが用、とも言える。何しに来たか、ここに来るために来た。それだけのことである」
三成にとって用とは、ここに来ることそのものであった。ここへ来て何かをするという用はなかった。あえて言うならば、幸村に対しこの口上を述べるために来た。
その概念を幸村は理解しかねたようだ。しばらく三成の話を聞いて、頭も冷えてきたらしく、心に余裕ができた。今は三成に対する警戒や不審、不安が心を占め始めた。
幸村の思うその通り、三成は見るからに怪しかった。出で立ちはスーツとまっとうだったが、ネクタイが黒い。ゆえに、喪服を連想させる。喋り方はトークにしては珍妙で、言っていることも奇怪である。なにより、彼は幸村のことを知っていた。警戒するには十分な素材であった。
「さてお前はそろそろ、俺を追い出すべきだと考える頃合だろう。俺はどこから来て、ここで何をして、どこへ行くのだろうか? そんなことはお前が生きるうえにちっとも関わらないと考えるからだ。それはその通りだが、俺が現れてしまったからにはそうとはいかない」
「……?」
一見、三成の言うことは矛盾していた。その通りだ、と認めてからそうはいかない、と覆す。幸村は理解しなかった。
「お前には死ぬ予定があるのだ」
「……え?」
「だから俺はここへ来たし、用もあった。ここへ来ることが用。お前が生きるうえに俺はちっとも関係がない。だが、俺が現れたからにはそうはいかない。お前は死ぬ」
幸村の時間は止まったかのようだった。
何かをとめどなく、素早い回転で考えているようにも思われたし、何も考えず、ただ三成の言葉を反復しつづけているようでもあった。それは本人には判断しかねることである。
「さてお前は再度疑問に直面する。俺は人間だろうか。それは自由だ。須らく、お前は俺を人間と思いたがるとも限らん。だから自由だ。選択の自由を俺はお前に与えた。だが必ずしも選択しなくてはならないわけではない。選択をするしないの自由がまずあり、選択するを選んだ場合、俺はお前に選択肢を与える。その選択肢からお前は自由に選ぶ。しかしそんなことをしても無意味だと思うだろう」
もはや三成の言っている言葉が、文章として成り立っているのか、幸村にはわからなかった。
「これを夢と考えるのもいいだろう。現実として受け止めるのもいいだろう。そこは自由だ。だが、生死の選択は不自由だということを忘れてはならない」
幸村の返事を待たず、三成は立ち上がり、机に足をかけた。それを止めることもせず、幸村は呆然と見ている。そして、三成が窓から飛び降りて、少しして慌てて窓を開けて下を覗き込んだ(もちろん、三成はいなかった)。
「……ええ?」
幸村が首をかしげているころ、三成は夜道を歩いていた。
03/31