革命を起こすのは、大抵は他者なのだ



 彼が現実というものが嫌いになったのはつい最近の話ではない。もともと、少々理想家なところがあったがそれが最近では顕著になった。
 それでもまだ現実を受け入れる余裕はあったはずだった。けれど、彼はとうとうその余裕すら理想で埋めてしまい、現実の入り込む余地を消してしまった。それは意図したわけではない。ただ、現実というものがあまりに彼と不適合だったからだ。
 だからといって彼が理想に棲むことはできない。現実に棲まざるを得ないために、彼は理想を欲するのだ。
 ところで、現実に彼が生きていることは明白だろうか。彼は現実に生きているつもりでいるかもしれないけれど、それは誰から見ても現実であるとは限らない。けれど、彼らにとってはそれが確かに現実だった。










 三成が黒いコートを羽織っているところに、喜色満面の兼続が現れたのは当然の成り行きと言ってもおかしくはなかった。

「さあ呑もう! 偉大なる総決算様が去られたのだ! これにて一件落着! 祝宴だぞ!」
「……兼続。俺はそういう気分ではない。今日は帰る」
「何を言っている。わざわざ陰気臭い四十課まで迎えに来たのだ。骨折り損のくたびれもうけになってしまうだろう? くたびれは私はいらないのだ」

 帰り支度をしている三成の周りを、兼続はチョロチョロと動き回る。それを三成はハエタタキでもするように、兼続の額を叩いた。
 それでようやく動きを止めた兼続は、いくつか文句をこぼしながら、三成の様子に疑問を抱く。
 総決算の締め切りは昨日で、今日は残りの雑事を片付ける消化日程のようなものだった。三成の腕ならば今日はたいして疲れもせずのんびりと過ごせたのではないだろうか。しかし三成は憔悴しきっている様子だった。それほどまでに、総決算が過酷だったのだろうか。

「何かあったか?」
「ああ、あった」
「何が?」
「知りたいか?」
「ああ」
「後悔したいか?」
「それはしたくない」
「じゃあ知らなくていい」
「でも知りたい」
「悩みたいか?」
「考えたいが悩みたくはない」
「じゃあ知らなくていい」
「でも知りたい」
「カミサマってなんて残酷なんだろう!……と、絶望してみたいか?」
「している」
「これを見ろ」

 長い問答の末、三成は一枚の紙を兼続に向かって投げた。ひらひらと不規則に飛ぶそれを器用に掴んだ兼続は、その中身に目を通して顔色を変えた。
 兼続がその中身を読む時間は、異様に長く感じられた。やがて読み終えた兼続は不快そうに紙をグシャグシャに丸め、ゴミ箱に向かって投げ捨てた。それに対し三成は慌てることもせず、また一枚、紙を取り出した。

「何枚あるのだ」
「コピーのミスかと思って何度も取り直したから、三十枚は同じものがある」
「確認しすぎだろう」
「挙句の果てに、コピー機のインクジェット付近がバカになったのかと思って解体してみたが、正常だった」
「やりすぎだ」
「でも確認したくなる気持ち、わからないか?」
「こればかりはわかる。ああ、とてもよくわかる。こんなバカげた話あるものか、って何十回でも確認したくなる」

 忌々しげに吐き捨てながら、三成が新しく取り出した紙を取り上げ、またグシャグシャに丸めてゴミ箱へ放り込む。
 帰り支度をすっかり終えた三成は、コートの襟を正し、カバンを持つ。

「さて、情報管理課のホープ、直江兼続。祝宴、行くか?」
「そんな気分じゃなくなった。本当、くたびれをもうけてしまったよ」
「ちなみに、これ、俺の担当だ」
「……ん? なら都合がいいのでは?」

 兼続をさらに驚かせてやろうと意地悪く言った三成だったが、予想外にも兼続は希望を滲ませた反応をした。
 怪訝に三成が問い返すと、兼続は平素のように笑顔を浮かべ、これぞ不幸中の幸い、だとか、地獄に現れる蜘蛛の糸、と、長い前置きを口上する。

「で? 結局」
「これを期にこの仕事に勧誘しよう」
「……お前、バカだろう?」
「バカじゃないぞ」
「この仕事がどれだけ過酷な労働条件か思い出してみろ。かわいそうだ」
「大丈夫だろう」
「それに、同一人物とも言いがたい」
「それはどうだろう」

 兼続は勝手に回転椅子を引っ張ってきて、腰掛けた。三成は帰り支度が終わったというのに、兼続が居座る様子らしく、また椅子に逆戻りせざるをえなくなった。そのことが不満だったようだが、兼続は気にせず続けた。

「そもそも人というものを決定するのはなんだろう」
「肉体ないし精神では」
「そうだ、それが基本的には人間になるかもしれない。ならば、個人を決定するものは?」
「俺を決定するものは、俺を知ろうとする探究心とも考えられる」
「お前のことは聞いていない」
「いや、つまり、それは個人によって大きく異なるものではなかろうか」
「ならば個人というものは主観によって形成されるべきもので、客観からは断定できないのか?」
「そんな話をしたいわけではない」

 若干、苛立ちをにじませた様子の兼続だったが、自らを落ち着けるように額を何度か突くことによって平素の落ち着きを取り戻そうとした。
 三成は普段とあまり変わらないようにも見えたが、緊張と苛立ちを緩和すべくやや威圧的に腕と足を組む。

「つまりお前は客観的に個人と特定するものが欲しいのだな? ならば戸籍だとか住民票だとか、便利なものがある。これがお前の欲している答えに相当するものであると考えられる。なぜならば、戸籍や住民票には誰の主観もなく、ただ事実のみを記録しているいわば名刺だからだ」
「なるほど、そう考えられる。だが私が求める答えではなかった。言い方を変えよう。私と三成は何を以てして彼を彼と認めているか」

 顎に手をあて、兼続はやや理知的に考えるそぶりを見せる。そう振舞うことにより、冷静に話を進めることが可能であるという判断からであった。
 兼続がこの場へやってきたばかりのとき、多少なりとも人の姿はあり、それに伴う喧騒もあった。しかし、もうすでにこのフロアには兼続と三成しかいないと思えるほど静まりかえっている。

「それがあればそいつはそいつになるのか? ならば該当する人間が多くなることも考えられる。意外と人間はステロタイプであることが多い」
「三成。私はどうやら道を誤ったようだ。こんなことを話している時間が惜しい」
「いや兼続。時間は俺たちが思っているよりも多い。俺たちは随分と長いこと、多くのことを論議してきた。しかし、そのうちの何割が、双方が納得できる結論に達しただろうか? たまには結論を出そうではないか」
「そんなことを考えていても、泥沼に沈むようなものだ。それよりも目の前の問題だ」
「俺たちの目の前にある問題は、議論によって解決するものではないのだ」

 飽くまでも個人を特定する客観的な特異性を求める三成だったが、兼続はそこにはさほど執着はしていなかった。兼続が話を戻そうとすれば、三成は食って掛かる。もはや揚げ足を取っているに等しかったが、兼続は怒りもせずに丹念に説明する。

「解決する、しないの問題ではない。どう対処するか、方策を考えようという提案だ」
「ならばお前はその方策とやら、あるのか? いいや、ないのだ。俺たちがこの職に就いている限り、それに干渉することは明らかなルール違反であるからだ。俺たちは個人ではなく団体の一端であることを強く自覚し、ただ機械のように感情もなくそれをこなすことが義務付けられている。わかるか? 感情とはこの仕事に於いて最も厄介なものであるからだ。だから俺は四十課に配属された。その資質があるからだ。そして兼続は情報管理課である。俺は個人の感情を優先させる人間ではないことくらい、お前は知っているだろう?」
「同時に、その仕事をひどく忌み嫌っていることも十分承知しているつもりだ」

 兼続の言葉を先取り、それを細々と切り分けて説明する三成に対し、兼続はやや不満を表した。それに気付いていない三成ではなかったが、あえて気付かないふりをして辛辣な言葉を繰り返す。
 兼続は人の感情を大事にする人間で、三成は自分の感情を疎ましく思う人間だった。

「だからと言って、俺にその規律を乱せとお前は言うか? いいや、しない。俺は与えられた以上それをこなすのみである」
「ならばなぜ私に言った?」
「勘違いするな。お前が知りたがっていたから言っただけだろう。どうせ、情報管理課にもそのうち回る情報だ。後で文句を言われても困る」
「……」

 あまりに三成は不器用である。そのことを兼続は十分に承知していたから、何も言わなかった。

「会ってみたいな、その幸村」
「お前の知っている幸村ではない」
「わかっているつもりだ」

 二人は途方もない時間を思い出し、ため息をついた。





03/20