魔法はとっくの昔に解けていた
彼はわりと、自分の考えたことを口にしたがる種類の人間だった。反して、自分の身に起きたことはあまり話したがらない人間でもある。
主張すべきことははっきりと主張し、プライベートのことは友人関係にすら持ち込まない秘密主義とでもいったところだろうか。
全てを話して欲しいと思う心は貪欲で醜い束縛であり、何も話さなくていいというのは無責任な自由主義だと彼は考えている。結果、彼はどちらとも選んでいない。自らに関する事柄以外の全てを他者に委ねているのだ。
それは奔放のようだったが、自分を緊縛しているにすぎない。マゾヒズムではなかったが、彼にはそれが心地よかった。
それが生きているという証にすらなりうると思えたからだ。
「とうとうこの日が来てしまった」
「来てしまったな」
「世界の総決算だ」
「人類の総決算だ」
兼続と三成は、同じように頭をかかえて大きなため息をついた。
まるで銅像のように身動ぎをせず、全く同じポーズを取っている二人は非常に目立つとも思われたが、店内にある姿は(店員を除いて)この二人だけだった。
「この時期ばかりはここでのんびりと酒を酌み交わすこともできん」
「だが惰性でここへ来てしまった」
「どうする?」
「取り返しがつかないロスタイムだ」
「ならばここでああだこうだ議論する前に仕事へ行けばいいじゃないか、と思うか?」
「思う。思うぞ。著しくそう感ずる。だがな、世の中理論ではなにも成り立たないのだ。感情も……いや、感情が必要なのだ」
「だが俺たちがここで感情にまかせて放り出してしまったらどうなる?」
「取り返しがつかないロストジェネレーションだ」
二人は何も注文していなかった。
注文さえしなければ、ここに長居する理由がなくなるし、なによりなにも注文しないまま居座るなどというあつかましい真似をしたくないという己の矜持に賭けたのだ。しかしその矜持もいまや負けつつある。二人はかれこれ数時間ここで同じやり取りを繰り返していた。
その上、店員が見かねて焼酎を出してしまったのだからもう手遅れだ。
「ああ、酒はいいな。酒はいい。もういっそアル中になって救急車に乗りたい」
「それで取り返しのつかない後遺症ができたりな」
「恐ろしいことを言うな」
「お前が不謹慎なことを言うからだ」
猪口を一気に傾け、ボヤく兼続に三成はシニックな笑顔で答える。
それから少し、三成は考えた。兼続の言ったことに対し、もう少し気の利いた、それでいて現実的な返答はないものかと思索し始めたのだ。三成は一度答えてしまったことを再度掘り起こすことが好きな男だった。
「ふん、病気になれたほうがいっそ楽だと思わんか。ああ、そうだ。病気になれるんだったらむしろ幸せだ」
「おや、以前、『昔言ったことを覆すつもりはない』なんて大口叩いた人間を私は見たことがあるな。そいつは病気になど絶対になりたくない、と病的なまでに健康マニアだったような気がする」
「兼続」
「なんだ?」
兼続の揶揄に、三成は低い声で呼びかける。
物怖じもせずに答えた兼続は、徳利を手に取り、三成の猪口に向けて傾けた。
「人は変わらずにいられると思うか?」
「なんだか似たようなやり取りをしょっちゅうしている気がする」
「だが実際問題、ムリだと思わんかね?」
「思う。だが三成、それとこれとは話が違う。だってお前は自分を貶めるような発言をしたのだ。言葉を覆さないと言って、舌の根がかわかぬ内に覆すなんて、お前」
「そんなものはロストジェネレーション、ロストシーズンだ」
へっ、と、純文学的なものすら漂わせるニヒルな笑いを見せて、三成はそれを猪口の中の酒と共に流し込んだ。
拗ねてしまった三成に兼続は肩を竦める。
「やれやれ。今はこんな水掛け論に興じる暇もない」
「実を言うと、俺たちは始めてだよな? 総決算」
「そうだ、総決算は初めてだ。とは言っても歳入歳出ではないところがまた小憎らしいだろう」
「ああ、小憎らしい。それならば俺の得意分野であったものを。ああ、憎々しい。総決算が人間であったなら俺は八つ裂きにして家畜のエサにしてやる。そして、これ以上にないってほどに蹂躙しつくしてやる。そうだな、踏んで、蹴って、叩いて、噛み千切って、千切りにして、みじん切りにして、ミンチにして」
「塩コショウであえて、叩いて、寝かせて、ハーブをあえて、叩いて、寝かせて、こねて、焼いて、おいしいハンバーグになるな」
「……気分が悪くなったぞ」
三成は人間として考えていたためか、兼続の話の運びに顔を青くした。対して兼続はちっとも意に介していない様子だった。
徳利を手に取り、兼続は自分の猪口に傾ける。最後の一滴が落ちるのを確認し、兼続はため息をつく。
「なあ、この酒呑み終わったら仕事に戻らないといけないのか?」
「イヤだ」
「拒否権なんてないよな?」
「でもイヤだ。どうせまた嫌味を言われるのだ。そして無能の烙印を押される。なんと憎らしいことか」
「私たちは有能なほうなのに」
「ちょっと昔に身の丈に合わないことをしたからって、無能無能。無能と言うことしか能のない無能め」
「そういう人間も珍しいよな」
「あいつは人間じゃない。無能だ」
「無能な人間だろう?」
「いや、あいつに人間という名刺も名詞も必要ない。必要なのは無能という名刺だけだ」
こりゃ手厳しい、と兼続は笑ったが、三成は本気だった。
その名刺を思い出したのか、三成は苛立ちに柳眉を逆立て拳を作った。しかしここで好きなように発散するほど子供でもなかったため、また、子供にもなれなかったため、テーブルに頭を打ち付けるだけで終わった。
「ああ、痛い。痛いのに死なない。死なない?……ああ死なない。痛いのになにも変わらない」
「そりゃ変わらんさ」
「この総決算が、終わったら俺は本気で退職願を出したい」
「総決算か。憎らしいなあ」
まさにそれは見えない敵だった。
テーブルに突っ伏して、とめどなくため息を繰り返す三成を見た店員が、苦笑いをしながら新しい徳利を置く。そして空になった徳利を下げ、何事もなかったかのようにまた雑事に戻った。
新しい徳利に兼続は目を輝かせた。
「三成。まだ酒は飲み終わっていないから仕事には戻らなくていい」
「そうか、それはいいな」
兼続の呼びかけに、三成はすばやく顔を上げた。
「そろそろ俺は仕事のせいで心が病むところだった。危なかった、ああ、危なかった。助かった」
「そういえば、総決算が終わった後のことは考えているか?」
「ん? だから退職願を……」
「無駄なことを考える時間が無駄だ。それよりも次の仕事に目を通すほうがよほど堅実的だ」
「……はん、とうの昔に見た。ああ、見たさ。俺だってわかっている、現実ってものくらい」
頭を掻いて投げやりに三成は言う。その言葉を拾いながら兼続は徳利をくるくると回す(呑み終わったら仕事へ戻らなければならないのだ)。
「予定では珍しくスッカスカのスケジュールだ。まあ予定ってものは未定で確定には至らないがな。しかしスッカスカだ」
「内容は?」
「七面倒なことばっかりだ。病気だとか、事故だとか」
「老衰は?」
「ない」
「そりゃ面倒だ」
「だろう」
それからしばらく二人は徳利を傾けることなく、突いたり、回したり、眺めたりして過ごした。
03/19