反芻することによって得る幸福と憂鬱
しかるべく進むという選択肢がない彼は常に全力で物事を考え、擦り切れ、磨滅し、水っぽいおろしになっても泥濘に身を任せられずに疲弊していく損な性質の持ち主だった。
他者を熟知し、上手い具合に扱える存在というものがあることを知らないわけではなかったが、まさか自分に限って扱われる側に立つなど、思ってみもなかったのだ。それは一種の慢心であり、自信だった(どのように彼が思おうとその彼自身の思考のベクトルを利用されているとは絶対に考えない)。
そういうことから彼はこの不本意な不自由の中に身を置くことになっている。
その不自由から逃れることはとても簡単で難しい。完全な不自由ではないために、打開策がひとつだけある。しかしそれを実行するかしないかは彼の自由に委ねられている。そして彼は実行しないことを選び続けている。よって、不本意な不自由も不完全である。
それを棚に上げて彼は常に不満を持ち続けている。
だが、それ自体は不思議なことではないし、矛盾と糾弾するには難しい。人間として当然の欲求を果たしているに過ぎないからだ。彼はそれを知っているから、狡猾に自分を正当化することができる。
彼はあらゆる事柄を言葉にして自分に言い聞かせたがる損な性質の持ち主でもあった。
「頭脳明晰で明朗活発、真摯に仕事を打ち込み、若年で経験が浅いながらもほぼ課長と同等の責任を背負い、同僚たちに指示を飛ばす直江兼続よ、これはなんだね」
仰々しい台詞を淡々と述べた三成は、平素利用しているカウンター席で座ることなく立ち尽くしていた。
三成が座る予定の席には、大きな丼が置いてあった。その中にはトマトと米を煮込んだリゾットのようなものが入っている(それが三成を困惑させていた)。
隣では兼続が涼しい顔をして、
「コシャリだ」
と、答える。
ムッとした三成はそのコシャリと呼ばれたものを一瞥する。名前だけではどのようなものかはピンとこなかったらしい。
「一人平均三十区担当のところをその倍どころではない百二十区を担当しているエリートの直江兼続よ、なんだそれは」
「なぜ前置きを言うのだ?」
まあ、座れよ、と兼続が椅子を勧めたので三成は渋々座った。
本日の仕事を終え、例のごとく足を運んだ先にはまるで三成の来訪を予期していたかのようにこの丼が鎮座していたのである。
「俺が来ることをまるで知っていて、それでいて嘲笑うようにくつろいでいるこの丼がなんだか腹立たしかった。まるで俺を先回りして高笑いしているようだ」
「そうか? 気が利くヤツ、とか思わないか?」
「思わん」
「まあ食べてみればいいじゃないか」
見るもの全てが敵だ、とでも言わんばかりの三成の思考に兼続は苦笑いを浮かべた。三成のそういったところは今までに何度も見てきたから今さら疲れることではなかった。
そして三成が、初見の食べ物に対しあまり寛容ではないことももちろん知っていた。その上であえて三成に彼が知らないような食べ物を勧めているのである。
常の通り三成はなかなか口をつけようとしない。
スプーンで少しだけ掬い、あらゆる角度からそれを凝視し、においを確認することを繰り返している。
「そのコシャリというものはだな、この間エジプトに行ったときに食べたものだ。ああ、あちらのデータで少々ミス……というか数字が不適合だったので確認のために行ったのだよ」
「わざわざ現地に赴くほどのものでもないだろう、そんなものは」
「……この間、あちらで大きな災害があったことは?」
「知っている」
「つまりとっても、とってもだ。そりゃもう、犬の手を人の手にしたいと思ったり、猫の手でもいいから借りたいと思ったり、常に盆と正月がいっぺんに来ているようだと叫びたいほど忙しいらしくて、そんなことをしている暇はないと遠まわしに言われてしまったよ。だからこっちに来て勝手に調べてくれと解釈したのだ」
その経緯を思い出した兼続は頭を抱え、テーブルに突っ伏した。すこしくぐもったうめき声が漏れている。
三成は呆れ顔で冷静に返した。
「そんなもの、お前が行かずとも下っ端を行かせればいいだろう」
兼続は勢いよく顔をあげ、呪詛のようにため息をついた。
「だから私が部下の立場だ」
そのことを知らなかったわけではない三成は、さして動揺することもなく平然としていた。
対して兼続は世界の終わりが目前に迫っているかのような切羽詰った様子で頭を掻いた。三成がコシャリという食べ物にちっとも口をつけていないことはこの際気にしていないようだった。
「だいたい、年功序列なんていまどき流行らない。能力第一主義とまではいかないが、もう少し柔軟に人事をしてみたらどうだろうか。だって、私や三成のような有能な逸材がこんな雑用まがいの役職に埋もれているなんて、異常だろう?」
「そうだな。だが、お前が年功序列なんてばかばかしいと言うのか?」
「言う。いくらでも言う。なぜかって? 時間は流れているからだよ。当然のことだ。時代というものがあるだろう? その時代によって最適な形というものがある。それに私は即しているだけで、別に批難されるようなことじゃあない。人間もまた然り。十年前に言った言葉を覆すことなんて珍しいことじゃないだろう? なにもかもが変わっていくものだ」
「俺はいつに言った言葉も覆すつもりはさらさらないな」
「ああそうだ。お前はそういうやつだったな」
諦めのそぶりを見せながら、兼続は快活に笑う。そして三成がちっとも丼に手をつけていないことに気付き、じっと視線だけで訴える。
普段から言葉が多い兼続が黙って訴えることは珍しい。三成は困惑しながらもスプーンを手に取った。兼続は三成のことだけではなく、一番盲点になりやすい自分のこともよく知り、それを上手く使用する術を身につけていた。
「それはだな、どうやらエジプトの家庭の味というやつらしいぞ。どうだ?」
「食べられないものでもない」
「美味しいだろう?」
「食べられないものでもない」
ずい、と身を乗り出してきた兼続を押しのけて三成は同じ言葉を繰り返した。
期待していた言葉を得られなかったらしい兼続は明らかに落胆し、唇をとがらせてみたが、三成は自分の言葉を訂正する様子を見せない。
「……お前は、いっつもいっつも同じものばっかり食べて、飽きないのか?」
「お前こそ、好きなものを押しのけてまで新しいものに挑戦して楽しいのか?」
あまり食の進まない三成を見かね、兼続は丼を自らの方へ引き寄せ、スプーンを奪い取った。三成は特別に引きとめようともせず、また残念がる様子も見せない。ただ、そのまま無言で食べ始めた兼続を見て、少し申し訳なさそうに視線を泳がせる。
美味しいから食べてみて、と勧められたものをつまらない顔をして食べるというのは流石に失礼だった、と、彼は考えていた。
どうやって切り出し、謝ればよいのか三成が考えているうちにすっかり食べきってしまった兼続は、丼に向かって手を合わせていた。満足げな表情で、三成に対し不満を持っているようには見えない。
言い出すきっかけを失った三成がテーブルに映る自分の顔を眺めていると、兼続が突然スプーンを見せてきた。
「三成、知っているか」
「……なにをだ」
「こういうのを巷では間接キスといって恥ずかしがるものらしいぞ」
「そうなのか?」
三成は『こういうの』が示す具体的な行為は察せなかったがとりあえず調子を合わせておいた。兼続が心底嬉しそうだったからだ。
「ああ。とはいっても、相手を性的に意識していないと成り立たないらしいが」
「……お前は恥ずかしいのか?」
「まさか。お前は頭がおかしくなったのか?」
「ならなぜいきなりそんなことを言うのだ」
「思い出しただけだ。ずいぶん前にどこかで聞いたからな」
03/03