知覚できない存在
とどのつまり、彼は人一倍自由を欲していたが人一倍自由を盲信できずにいた。自由というものはいわゆる不自由の中のさらに不自由にさらされている人間が想像した架空の存在であり、実際にそこを這い出してもやはり不自由しか待っていない。彼はそれをよく知っていた。
しかしその世界を不自由と感じるか自由と感じるかは個人の自由だ。彼は地に足をつかなくてはならない不自由も、性別の不自由も、肌の色の不自由も、髪の色の不自由も、目の色の不自由も、体格の不自由も、能力の不自由もさほど苦痛には感じていなかった(つまりそれを不自由とは考えていなかった)。しかし彼はどうしても不自由を憎まなくてはならない理由があった。
彼は仕事が嫌いだった。ただそれだけだった。
そうなると、頼まれて断ったのに結局強制される不自由や、やめようにもやめられず半ば恐喝されている不自由や、それを押し切ることのできない自分の未練たらしい性格の不自由、他人の行動や思考を自らの良いように操れない不自由を感じざるをえない。そういうことで彼は自由を欲していたが、自由などないと極論に走ったわけだった。
しかし自由など存在しないという彼の極論にはわずかな根拠があった。これは彼の偏見で何一つ根拠のないことだったが、彼は一つだけ自由に非常に近いものがあると考えていた。しかしそれも、この言い知れぬ不快な不自由によってあっさりと否定されてしまった。それによって、彼は自由を唾棄したのだ。もちろん、この否定さえなければ彼は愛らしくも自由という蜘蛛の糸をためらいもなく掴んだだろう。
単純に言えば、彼の信じる自由は不自由によって壊されてしまったので、彼は自由が欲しいな、なんて小石を蹴ってみたりなんかするのだが小石は川に落ちてしまって、彼は絶望を謳歌するのである。
「へえ? それで、どうしたんだ」
「あまりに理不尽で腹立たしくて屈辱だったので怒ってそのまま帰ってきた」
「おや」
「そうしたらどうだ。あの上司、俺が悪いみたいな口ぶりでもう一度行ってこいって言うのだよ。やってられん」
鼻息も所作も荒々しく、腕を組んだ三成は苛立ちを緩和させるかのように忙しなくつま先や唇を動かした。子供らしい動作だったが彼は立派な成人だった。
子供じみたところの抜けない三成に対し、兼続は母親のように窘める。
「職務放棄はいかんだろう」
「ならお前、俺と交代するか?」
「いやだ。私はね、三成の話を聞いていると、四十課に配属されなくてまだマシだったと思うよ」
「ふん、だろうな」
次は兼続が子供のように振舞った。それに対し三成は宥めることなどせず、ただ頷いた。三成の配属されている課は不人気だった。精神の安穏という見解からハイリスクノーリターンであることと、単純に仕事の量が半端ではなかったからである。残業があることが当然として受け止められているのだ。三成は有能なほうだったので、他の人間よりかは仕事が終わるのは早かった。
兼続の課も似たようなものでどんぐりの背比べだったが、兼続自身がマシだと言っているので本人の資質にもよるところがあると考えられる。
「……ああ、今、こうしてお前と酒を飲んでいる間にも仕事が一つ二つ三つ四つと増えていくのか。そう考えると憂鬱だな」
「まあまあ、あまり考えるな。私も同じことだ」
「それも、そうだな。まったく、なんの因果で俺はこんな仕事をしているのか。誰か答えを持っていないのか」
「ふむ。ひとつ、存在するだろう」
「誰だ」
「カミサマ」
真剣すぎる兼続の態度に、三成は顔を顰めて黙り込んだ。三成が黙り込むことは想定済みだったのか、兼続はちっとも気にしたそぶりを見せず、猪口を傾ける。
二人の考えていることは非常に似通っていた。カミサマに目をつけられるなんて、一見素晴らしいことのように思えるが、実際には運がなかっただけだった。
兼続は特定の神を信仰しているが、三成は逆でカミサマなどという存在を信じるという習慣はなかったはずだった。しかしその三成も、兼続の言葉を否定せずにただ黙っているだけだ。そのことに兼続が疑念を抱いている様子はない。
「兼続、俺が今なにを考えているかわかるか」
「そうだな。とりあえず、どうすれば仕事をやめられるか、ってところだろうな」
「ああそうだ。本当に八方塞なのだぞ。駄々をこねてもストを起こしても滞納してもなにをしてもだ」
「ふむ。ひとつだけ打開策があるぞ」
「なんだ」
「生きることだ」
突飛な兼続の発言に、三成は深いため息をついた。体の隅々にまで鬱屈したストレスがすべてこもっているように感じさせる重いものだった。その重苦しい雰囲気に兼続も思わずため息をついていた。
また二人は黙った。
三成にとって兼続の答えはあまりに単純明快で、簡単に思えるように感じたが非常に難しいものだった。兼続はそこに置いてある醤油を取って、といったように軽い調子で言ったが、実際には万能の神が誰にも持ち上げることの出来ない石を作ることのように難題だったのだ(それは兼続にも言えることだった)。
「三成、私の考えていることがわかるか」
「わからんな。差し詰め、この時間が永遠に続けばいいといったところか」
「似たようなものだ。だが永遠は存在しないと思っている」
重苦しい心情と先の見えない話題におろそかになっていた酒を呷った三成は、兼続の話にただ耳をかたむけた。
「肉体は簡単に腐るだろう。今は腐る前に火葬してしまうが。骨は確かに残るが、ほっとけば風化するさ。まあ、骨壷にいれてしまうから風化はしないんだろうけどな。風化するといっても粉になるか、水に侵食されてもしかしたら溶けてしまうかもな。それならばどこかしらの肥料になり、そのものは永遠となると考えられるかもしれない。だがな、意思もなにもないそれが本当にその人なのか疑問に思わないか。つまり、その人は死んだ時点で永遠ではない」
「まあ、そうだろうな。それがマジョリティーだ」
「しかしな、こうは思わないか」
三成の目につまようじが映った。それを一本手に取り、半分に折った。それをまた半分に折る。ただの手遊びだったが、三成は熱中した。
猪口をくるくると回しながら兼続は続ける。
「精神は永遠ではなかろうか、と。つまり、肉体は死後簡単に朽ちるが、精神はそうはいかない」
「それで、お前は輪廻転生と言うつもりか。だが、それはもはや別の人間だ。その人間はそこで終わったのだ。また新たな人間が一瞬生きるだけだ」
「だがベースは同じものではないかな。……まあ、永遠なんてものが抽象的すぎていかん。具体的に、いつまでが永遠なのかわかればいいのだが」
すっかりボロボロになってしまったつまようじを端に寄せ、三成は新たなつまようじを手にした。今度はそれを折らずに、慎重にテーブルの上に立たせようとする。
「いつまでも、が永遠だろう」
「いつ終わるのか気になってしかたがない」
「終わらないから永遠なのだろう」
「ならば、やっぱり永遠は存在しないな」
「酔っているのか?」
「少し」
頬杖をついて大きなあくびをした兼続は、パチパチと瞬きをする。そしてぼんやりと三成の手元でころころと転がるつまようじを眺めた。その様子は眠たげのようにも見え、思案をめぐらせているようにも見えた。
つまようじに飽きた三成は壁に大きく書かれているメニューを眺めた。店内は洋装で薄暗く、薄っぺらい高級感を感じさせるものだったがメニューは和洋折衷だった。店員に「みたらし、ふたつ」と慣れた様子で注文し、ようやく兼続を見る。三成には眠いのか考えているのか区別ができなかった。
「団子、食うか」
「そうだなあ。今から食べると寝るときに寝苦しくなりそうだ。だが、今食べないと腹が減って眠れそうにない。これは難しい。どちらがより賢明な選択だと考えるか?」
「食べないより食べておいたほうがいいだろう。どうせ明日も、食事の時間すら惜しいほどに忙しいのだ」
「まあ、腹は減らないからいいのだがな」
「たしかに減らないが、なにかしら食べたいだろう。気持ち的に」
三成の言葉に同意を示した兼続は、やがて運ばれてきた団子を受け取った。
食べるという行為は生きるという意志の実践である。二人はたしかにそれを行っているのだが意味はなかった。彼らにとって自分がなにかを食べようが食べまいがなにひとつ問題がなかった。食べる理由はただひとつ、味覚への刺激が欲しいだけだったのだ。
二つ目の真ん中に位置している団子をどの角度から食べれば一番効率よく、美しく、汚さずに食べられるか、さまざまな状況をシュミレーションしていた三成は、兼続の呼びかけによってそれを一時中断した。
まだ一つ目の一番上の団子を半分しか食べていない兼続は、いったんそれを皿に置く。
「さっきは私の話だったが、三成は永遠をどう思っているのか気になった」
「俺が永遠をどう思うか?」
「ああ、そうだ」
皿の上で団子の棒をくるくると回しながら三成は天井を眺めた。薄暗い照明が周囲の喧騒をさらに際立てているようだった。
「まあそうだな。俺はあると思うな、永遠は。少なくとも、知覚できないから永遠だろう。……簡単に言えば、死んだ人間は永遠に死んでいる。その者が死んだという事実は永遠にある。それだけだ」
「そう考えるか。たしかに事実だけは永遠に残る。それが他人の記憶に残らなくとも事実はある」
「そういうことだ。なにか問題でもあったか」
「いや、別にないさ。ちょっと変わった意見だと思っただけだ」
「俺はいつだってマイノリティだ」
揶揄するように三成は笑い、兼続も合わせるように笑った。
02/17