カットアウト
「三成、なんだねその猫は」
落ち着いたバーには不釣合いな姿が現れた。
三成の肩には、黒猫がぶら下がっていた。肩に乗ろうとしていたのだが、歩いていた三成の肩は安定せず、必死に爪を立ててなんとか落ちないように努力していた。爪でスーツはすこしほつれてしまっていたが、三成が気に留めた様子はない。
「猫だ」
「ああ、猫だが」
カウンター席に座っていた兼続の隣に、三成は猫をぶら下げたまま座った。
呆れ顔の兼続は、三成の肩から猫を抱き上げる。人に慣れきっているその猫は、警戒することなく大人しく抱き上げられた。
「にゃんちゅうという名前と聞いた」
「変な名前だな」
「交差点で飛び出して、轢かれたのだよ」
「よしよし、怖かったかな」
猫はちらりと兼続を見たが、何も反応を示さない。もちろんのことだった。
兼続は猫を自分のひざに乗せ、あらかじめ用意されていた二つの猪口に徳利をかたむけた。
「すまんな」
猪口を受け取り、三成はぐい、と飲み干した。
よ、いい飲みっぷり、と兼続は茶化したが、三成は返事をしなかった。そのことに関しては兼続も慣れたことなので、気にした様子もない。
少し躊躇する様子を見せた後、三成が口を開いた。
「そういえばな」
「あっ」
「む」
「猫がどこかへ行ってしまった」
「そうか」
大人しく兼続のひざに乗っていた猫だったが、飽きてしまったのかひざから飛び降りてどこかへ去ってしまった。
兼続は少し残念そうにしたが、気を取り直して三成の猪口に徳利をかたむけた。
「しかし、三成が猫を連れてくるなんて、変なこともあるものだな」
「そうか?」
「動物なんて、好きでもないだろう」
「ああ。……まあ、あの猫は幸村がかわいがっていたし、なんとなくだ」
「そうか」
猪口に注がれた酒を、三成は見下ろした。表面はゆるゆると波紋を描いている。その水面に映る自分の顔を見つめ、やがて目をそらした。
「そういえば、あいつは動物が好きだったな」
兼続はまだたっぷりと中身のある徳利を揺らす。水音は静かな店内によく響いた。次第に勢いを増した酒は、ピチャン、と兼続の手の甲に跳ねた。徳利を置き、おしぼりで跳ねた酒を拭きながら兼続は前傾だった姿勢を正す。
兼続の独り言を頭の中で反芻していた三成は、ちらり、と兼続に視線を送る。
「さて、何を言いかけたのかな。まあ、なんとなく想像はつくがね」
とても口を開く雰囲気ではなくなろうとしていたが、兼続の仕切りなおしによって三成は嫌でも口を開かなくてはならなくなった。なんとか決意までこぎつけ、ようやく重たい口を開いた矢先に水を差されてしまい、また新たに決意をしなくてはならなかった。
少しの間、厳粛さを感じさせる沈黙が続いたが、ようやく三成は口を開いた。
「以前言っていたな」
「うん?」
「どうしてこの職についたか、って」
想定外の切り出しだったのか、兼続は少し惑いながら相槌をうつ。
「最初は、狸が昂然と言う泰平の世というやつを見てやろうと思ったのだ。俺を、ひいては豊臣の世を打ち破ってまで得る価値のあるものか、不思議に思ってな」
「それは」
「俺はただの怨霊だった」
三成は猪口の中身をふたたび飲み干し、徳利に手を伸ばそうとした。しかし、途中でその手を止め、気を利かせ徳利に手をかける兼続を制した。
彼は酔いたくなかった。
「お前が死の床に臥した時、俺はお前の迎えに行った。お前はたいそう驚いていたな」
「ああ、そうだ。今でも覚えている。あの時の衝撃は、とてもじゃないが」
「偶然、お前の担当になっただけだった。まあ、お前はいつまでも挟撃の件で気に病んでいたようだから、ついでに気にするなとでも言っておこうと思ってな」
兼続は猪口に口をつけた。
「……そういえば、お前はどうしてこの職に?」
「おや、知らなかったか」
「聞いたことがなかったな」
「覚えているか。幸村をこの職へ勧誘したらどうか、と最初に提案したことを」
「ああ」
「また、三人で語り合いたかっただけさ。ただ、お前は乗り気ではなかったし、それ以降言わなかったが」
空になった猪口に、自ら徳利から酒を流しこむ。そして一口で呷り、口元を拭った。
「でも、お前は、俺が幸村に干渉することを良く思っていなかったようだが?」
「本当はずっと気付いていたのさ。その幸村は、私の知る幸村ではないということを」
手元の猪口ばかりを見ていた三成は、ちらりと兼続を盗み見た。兼続の表情は何も表さず、ただ正面を見据えている。
「今、すぐそばにいる友を守りたかった」
「よくわからないな」
「そうか?」
三成には兼続の言うことが理解できなかった。言っていることの意味はわかるが、理解ができないのだ。
納得のいかない顔を作る三成を、先ほどまでの恐ろしいほどの無表情から一転して兼続は豪快に笑った。三成は笑われた理由もわからなかった。けれど、これほど楽しそうに笑う彼を見るのも久しぶりのような気がし、三成も少しだけ笑みを浮かべる。
ふと笑いの虫がひいて静かになった兼続は、猪口に酒を注いだ。三成は、まだ飲むのか、と言いたげだったが、それを言うことは無粋なことのように思われたため、黙っていた。
「多分、詭弁だな。最初は素直に三人で語らう日を待っていた。だが、今、そう今、実際に実現したかもしれなかったというのに、及び腰となった。幸村はまったくの別人なのだろうとか、三成を失いたくないという思いもあるが、もっと単純だ。無が怖い」
「俺もそうだった」
「過去形、か」
「ああ。俺は志を最期まで諦めることなく潰えた。本来ならば、そこで俺は無となるはずだった。狸の天下泰平の世を見届けるというのも、おそらく言い訳にしかすぎない。俺は、俺自身の中でが今まで築き上げたものが消えてしまうことを恐れた」
「そうだ。なにかしら、恐れているものから逃げることには理由が必要だ。誰もが納得してくれそうな、もっともらしい理由が」
「言い訳を連ねるのはもうやめだ」
ぴしゃりと言い放ち、三成は席を立った。
兼続は驚くことなく穏やかな眼差しで三成を見る。窮屈なほど背を伸ばし、きつく結んだ口は開かれない。彼の決断はあまりに遅かったが、固いのだ。兼続はそう悟った。
「そろそろ時間だ。処分が決まっている」
「人の死期を変えてしまったお前には、ただの無は得られないぞ」
言葉とは裏腹に兼続はたおやかに微笑んでいた。
「承知の上だ。言い訳ばかりして、逃げ回っていた無様な己に対する叱責だとでも思っておく」
凛とした物言いに、兼続はかつての三成を思い出した。惰性に支配され、知らず知らずのうちに三成という人格も損なわれていた。しかし、彼は取り戻したのだ。死する瞬間まで確かにあったものを。そして彼の矜持が、現状も、己の狂気も、すべてが許せなかったに違いない。兼続はそう悟った。
三成は出入り口に向かい、歩き始める。兼続は座ったまま、三成の背を眺めた。
「じゃあな、兼続」
「ああ、さよなら、三成」
カランカラン、とベルの音がうるさいほどに響いた。
音に驚いたのか、どこからか猫が兼続の足元へ戻ってきていた。しかし兼続は自らの猪口に注がれた酒を眺めているばかりで気付かない。
兼続の隣の席には誰もいない。ただ、猪口が一つ置いてあるだけだ。
08/19