無音にかきけされる
人生は選択の連続である。
この日も雨が降っていた。
最近は雨ばかりだ。少しは晴れてもいいじゃないか。
厚く空を覆う雲に文句を言っても、はい、すいません、と雲が去ることはもちろんなかった。期待していたわけではないが、融通がきかないやつだと理不尽なことを考える。
もうすぐ死んでしまうのだから、少しくらい晴れてくれたって。
そう考えた途端、幸村はむなしくなった。
完璧に死を受け入れたわけではない。ただ、悲観的になるのならばもっと前向きに、目一杯楽しんで満足して死んでやろうと思っていた。だが、いざそうしようとしてみると未練ばかりが募っていった。あまりに日常が美しすぎたのだ。楽しもうとすればするほど、それが楽しくて、手放さなければならないと強く律しなくてはならなかった。
自分でも信じられないほどそれが辛かった。誰にも言う気はなかったのに、三成にその本音を漏らしてしまった。
あまり軽々しく感情を表に出さない人だから、どう感じていたのか幸村にはわからなかった。けれども困らせたことだけは容易に想像できた。三成は幸村に死を宣告したその人である。そしておそらく幸村の死を静観し、冷静に対処すべき存在なのだろう。
ただの見栄だった。
なぜか彼に見苦しい姿を見せたくなくて、必死に取り繕って、それが空回りした。結局、見苦しい姿を曝け出してしまっていた。
思い出せば出すほど悶絶し転げまわりたくなる衝動が湧き出てくる。
不思議なことは、彼に呆れられたのではないのか、嘲笑の対象となっているのではないかという不安が生まれてくることだった。自分に対し死を告げた相手であり、コミュニケーションもろくに取っていないというのに彼にそういった態度をとられることが嫌だったのだ。その理由がわからなかった。
彼に対しての不思議は他にもあった。彼に対し、まるで警戒心のない自分、まるでずっと昔から自分を知っているように舌に馴染んでいる自分の名前、自分を見る複雑な彼の双眸。言葉にし難い不可思議なものがあった。その理由もわからない。
わからないことだらけで幸村の頭はパンクしそうだった。考えても考えても納得の行く理由などないことをわかっていても、考えてしまう。それは好奇心にも近かった。しかし三成に直接聞くことはできなかった。なぜかはわからなかったが言い出せなかった。そうしてはならないと、無意識に考えているのかもしれない。
その理由も幸村自身には説明できなかった。
制服の襟を正し、心機一転といった面持ちで家を出る。ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
傘を差して歩いていくうちに、雨脚は強くなり本降りとなった。
雨は好きではなかった。もっとわかりやすい、カラッとした清々しい天気のほうがずっと好きだ。汗がにじむような晴天の下で、思い切り駆け回りたい。友人達と休み時間にバスケでもサッカーでもしたかった。
幸村は衝動の往なし方を知らなかった。
悶々と雨の音を聞きながら、まぶしい晴れの日に汗だくとなってボールを追いかける自分と友人達を想像した。
足取りは徐々に重みを感じさせるものとなっていく。ずるりと地に足がへばりつくような、奇妙な感覚に幸村は困惑する。
ふと彼は視線を背後に巡らせた。特別な理由はなかった。ただ、後ろを顧みただけである。平素ならばただの気のせいで終わったものも、そこに人がいたのならば意味のあるものとなる(そしてその人が特別な人ならば意味は深いものとなるのだ)。
「三成さん」
「そうだ」
的の外れた返答だった。
三成は雨の中、まったく湿り気を帯びずに存在していた。幸村は、彼の唐突な登場にはすっかり慣れきっていたため、動じることなく笑顔を浮かべた。
「どうしましたか」
実際、先日のやり取りを思い出して恥ずかしさのあまり、胃がキリキリと締め付けられていた。しかし謝っても言い訳をしても事実が変わることがない。幸村は精一杯の虚勢を張るしかなかった。
幸村の問いに対し、三成は少しの間黙った。
射抜くように幸村に視線を据えていたが、なかなか言葉を発しない。
通勤、通学によって人が多い時間ではあったが、少し先にある交差点ならばまだしも、ここはまだまだ閑静な住宅街である。また、雨のせいか人通りはほぼなかった(その代わり、循環バスは満員なのだろう)。だからこそ、幸村は三成に話しかけた。
やがて三成は、ようやく口を開いた。
「お前は生きたいと言っていたな」
「へっ?」
手持ち無沙汰になってきた、と幸村が困り始めた途端、三成は幸村の触れられたくない件を口にした。不意打ちに近かったため、幸村はすっとんきょうな声で応対することになってしまった。
「……まあ、その、なんだかちょっと感傷的だったみたいです。忘れてください」
慌てて幸村は平静を取り戻そうと努力し、努めて静かに返す。自然と手を握り締めていることに気付き、あわてて拳をほどいた。
「選択の自由がある、と以前言ったな」
「え? ああ、言っていましたね」
「お前は選択した」
何を、と質問することはできなかった。
耳を劈く甲高い音が先の交差点で響いていた。
「振り返り、俺を見つけた」
「私は、あの事故に」
「そうだ。なんの特別なこともない。あまりに呆気ない、つまらない事故だ」
三成に気付きさえしなければ、幸村は今頃その交差点で信号を待つなり横断歩道を渡るなりしていたに違いなかった。
背筋が凍りついて、言葉が出なかった。喋りたいことがなかったのも理由だが、胃から何かがせりあがってくる感覚と、喉が自然と締め付けられる感覚によって、喋りたくても喋ることができなかった。
ニュースでもよく見る車の事故である。たしかに目新しさはないかもしれない。それでも、その渦中に自分があるべきだったと考えると、幸村には劇的な出来事だった。
走ったわけでもないのに、幸村の鼓動は早鐘のように振動する。
彼は何度も深呼吸をしてようやく表面的な落ち着きを取り戻した。それでも、流れてくる交差点の喧騒に心をかき乱されそうになっていた。
「俺とお前はずいぶん昔に、友人だった」
「へっ?」
心の整理もままならない幸村に対し、三成は突拍子もないことを幸村に告げる。
幸村は芸もなくさきほどと同じようにすっとんきょうな返事をした。
考えられる理由はないこともなかった。幸村自身が覚えていないだけで、本当に昔友人だったとか。それが普通の人が相手ならばありえない話ではない。しかし、三成はどうお世辞で飾っても普通の人間とは言えなかった。
情報の量が膨大すぎて、とうてい今すぐに整理できるものではなかった。
混乱ばかり深める幸村に、三成はわずかに笑みを浮かべた(本当に、口角をわずかに吊り上げる程度のものだった)。
「相変わらず、考えるのは得意ではないな」
それはどう考えても濡れ衣だった。
この状況で立派に整然と物事を整理できる人がいるならば、もはや人間なんて域を超えている。
しかしそのことを考えるよりも早く、幸村は、三成の笑顔に驚いた。おそらく、初めて見た笑顔だった。そして、その笑顔がどうしてか無性に懐かしいような気がしてならなかった。
「ではな、幸村」
「えっ?」
幸村が質問するよりも早く、三成は姿を消してしまった。困惑し、あわてて三成の姿を探したが、見つけることはできなかった。
サイレンの音が遠くで響いている。
08/19