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彼は人を絶望させることが仕事だった



 経験を積み重ねることによって、知識や知恵を身につける。それを成長と言う。それは基本的に喜ばしいことだ。そうやって先人たちは学び、今日に至る知識、知恵、技術を残していった。
 個人においても言えることだ。いたずらをして怒られ、それは悪いことだと学び、以後同じ過ちを犯さないようにと細心の注意を払う。しかし、それがあまりにも遅すぎると、後悔へと結びつく。








 そもそもの発端は、幸村だ。
 三成は先日の兼続との会話を思い出し、体の奥に重しを抱えているようなものを感じていた。明確に言葉にはできないが、どうにも憂鬱のような、不安のような、途方のないものである。
 今にも雨が降り出しそうな曇天であった。その中、三成は流れる雲を眺めながら寝転がった。場所は幸村の家の屋根であった。
 屋内からかすかに生活音が漏れている。中には幸村がいた。しかし、三成はまっすぐ幸村の私室には向かわず、屋根の上で雲を眺めているのだ。理由があってのことではない。ただ、気が乗らなかった。
 三成の思考は錯綜としていた。
 兼続のことや、幸村のこと、そして自分のこともいっぺんに考えようとして、思考があちこちに飛び回る。そして収拾がつかなくなってしまう。その悪循環を繰り返していた。彼にとって、優先順位をつけることが難しい話たちだったのだ。その上、早急に結論を出さねばならない、という焦燥感もあって彼はこんがらがっている。そして考えるにしても、兼続の、幸村の、自分の何を考えようとしているのか、それすらも見失いそうであった。
 そこへ、一匹の黒猫が屋根の上へ上ってきた。その猫は三成の姿を見つけるなり、警戒したのかすぐに屋根から降りてしまった。

「猫、か」

 猫が自分に気が付いたことに少し興味を持ったが、そう掘り下げるものでもない。そう三成は断じ、すぐに興味を失った。
 また三成は雲を眺め始める。雲を眺めたところで、思考に進展があることもないのだが、書類の山を眺めたり雑踏の中にいるよりかは静かで、平穏だった。しかしそれは他に意識するものがないということで、嫌でも考えに没頭するということだった。
 いい加減、何か一つに絞ろうと三成が考え、何に絞ったらいいのだ、と考え始めたところで、また屋根の上へ上ってくる存在があった。

「あ、三成さん」
「む」

 幸村だった。頭の上には先ほどの黒猫が乗っている。
 三成にはそれがどういう状況なのか、よくわからなかった。

「猫が、めずらしく、降りてきたので」
「お前の猫か」
「いいえ、野良猫なんですけど、ついつい餌付けしちゃって」

 屋根の上がお気に入りみたいで、いつも餌を置きにくるのに苦労するんです。と、苦笑を浮かべながら、幸村は三成の隣に座った。器用にも、猫の餌を入れているであろうトレイを手に、屋根へ上ってきたようだった。
 猫はすべり落ちるように幸村の膝に向かって走り、幸村の手の中のトレイに向かって前足を伸ばす。がりがり、と爪で引っかかれ、手首が赤くなっている。

「はいはい、落ち着いてくださいって」

 差し出されたトレイに飛びつき、猫は幸村のことなどすっかり忘れてしまったようだ。
 三成と同じように、幸村は寝転がった。

「テスト期間が終わったのですよ。今日は早く帰られるから、政宗さんと遊ぼうかなって思っていたのですが、めんどくさいって断られちゃいました」
「そうか」

 別に興味はなかったが、躍起になって止めるほどのことでもなかったので三成は相槌だけうっておいた。事実上、その気のない相槌が、興味のない話題だ、という合図となってはいたが。
 そのことに気付かないほど鈍感でもない幸村だった。

「突然すみません。そういえば、三成さんは政宗さんをご存知なのですか?」
「ああ」
「でも、政宗さんには、三成さんが見えていなかったみたいです。いや、それどころか、私以外の誰にも」
「若いからな」
「私だって、若いですよ」

 ほら、と、幸村は袖を捲り上げて目一杯力を入れて見せた。とてもしなやかで若々しく、美しい筋肉だった。

「三成さんは、本当に不思議です」

 三成は、どう答えたらいいのかわからなかった。

「突然現れて、私は死ぬって言って、なんだかよくわからないことをいっぱい喋って、それで、私以外の人には見えない。そして、私のことをずっと昔から知っているように、私の名前を呼ぶんです。でも私は三成さんのことを全然知らない」

 三成は幸村をよく知っていた。しかし、その理由は語らなかったし、考えようともしなかった。考えたら、どうせ、底なし沼なのだ。
 返事がなかったが、幸村は気を悪くするどころかただ苦笑いを深めるだけだった。

「最近、毎日が楽しいのです」
「楽しい?」
「ええ。実感は全然沸かないですけど、目の前に不思議な人がいて、その人が私は死ぬと言って。それが本当かわからないけれど、本当かもしれないと思ったら、毎日の些細なことが、すごく、楽しいものだ、って。ありきたりですけど、幸せだな、と」
「そう言う人間は珍しいな」

 大抵は、死を宣告されれば狂乱する。どうして自分が、と、根拠のない被害者意識でなじったり、諦観の末になにもかも諦めきった半死人であったり、さまざまなパターンがあったが、幸村のような人間はあまりいなかった。というのも、宣告から実行まで余裕があるパターンは本来ないはずだから、当たり前なのかもしれない(中には、既に死を悟り、この幸村のようにその瞬間まで全てを謳歌している人間もいた)。
 だが、三成は言いようのない違和感を感じていた。

「私を邪険に扱う政宗さんも、本当に私のことが嫌いなわけじゃないってのもわかっていましたし、父も母も、進路の話なんかで悩んでいないか、って気にかけてくれていたり。以前なら、まだ先の話だし気が早いなあ、くらいで終わっていましたけど、よくよく考えると、私のことを考えてくれているからで」

 トレイをすっかり空にしてしまった猫は、幸村の膝の上で大きく伸びをして、あくびをひとつした。それから幸村の腹の上で丸くなり、目をつむった。

「猫も、野良猫でなつくわけがないって思っていたけど、意外とすぐ懐くものだなぁって。この子の名前、実はこっそりつけているんです。ニャンチュウっていうんです。笑われそうだから、あまり言わないんですけど」

 幸村の腹が揺れるので、猫はすぐに目を覚ました。とても寝られる環境ではないと気付き、なにか興味の示しそうなものを探し始めた。好奇心の深い目がくりくりと周囲を見渡した。
 そこで猫は三成に興味を示した。
 おそるおそる前足を伸ばし、三成に触れようとする。しかし、それはただの空振りに終わった。

「雨が降ってきたな」

 暗い曇天から、ぽつぽつと雨粒が落ちてくる。それは幸村の頬や、猫の耳を打つ。
 ぴんと張った耳は、機敏に動き、猫は幸村の腹を蹴ってどこかへ去ってしまった。雨の当たらない場所を探しにいったのだ。
 三成は手を伸ばした。しかし、雨に触れる気配はなかった。

「テスト勉強とか、こんなに頑張ったの久しぶりです。ちゃんと授業を聞いて、ノートを取って、教科書を読めば意外とできるものだったのですね。なんだか、今まで損していた気分です。あと、勉強って不思議ですね。一つを学んで覚えると、他のことも少しわかる気がして、それがどんどん連鎖していって」

 待てども待てども、三成が雨に触れる気配はなかった。
 次第に雨脚が強まり、幸村の体はだいぶ湿り気を帯び始めた。

「そろそろ、中に入らないと風邪をひく」

 三成は起き上がり、幸村を促した。しかし幸村は寝転がったまま、動く気配がない。それどころか、三成の言葉に一つの反応も示さない。

「毎日が、すっごい、楽しいんです。なんだか、よくわからないですけど。マンガとかアニメとかで、日常の些細なことが、実はとても幸せだって、言ってました。でも、そうなんだ、って思うだけで、実際に私がそういった幸せを噛み締めることってなかったんです。結局、自分にとってはずっと先の話だったんです。私は、三成さんに会うまで、知らなかったんです。私は、少しもったいない生き方をしていたって」

 三成は、その言葉に言いようのない違和感の正体を見つけた。だが、それを糾弾するほど、三成は幸村に対して潔癖になれなかった。三成自身にも、全く違うものではあるが似たようなものがあった。
 だから、三成は何も言わず、ただ幸村の言葉に耳を傾けていた。

「私は、生きたかった」

 本降りになった雨の中、幸村は腕で顔を覆った。袖はすっかりと水気を帯びて、とてもひんやりしていた。それが顔の火照りを収めてくれやしないか、幸村は願っていた。





07/29