氷が溶けるまで
前ばかり見ていてはいつか行き止まりに出会ったときに、戻るべく道が見えなくなってしまうものだ。
彼は行き止まりに出会ってからというものの、引き返すことを知らず、ただあべこべに別の道を探索していた。振り返らないという信念を超えていた。
つまり彼は、ゆるやかに狂気に浸されていたのだ。
兼続は、もはや定位置となったその席で一人、グラスを傾けていた。もはや無心といった表情で、もくもくとグラスを空にし続けていた。もはや作業と言っても過言はない。
いつも兼続の隣に座っている三成の姿はない。
空になったグラスに、アイスペールから氷を放り込む。アイストングがカランと音を立てた。それから黄金色のウイスキーをゆっくりとグラスに流し込む。カラカラ、とグラスを揺らし氷が溶けるのを少し眺めた後、ちびりちびりと口に含み始めた。
どれほどの時間そうしていたのか、彼の頬には少しの赤みが差していた。しかし手元は危なっかしいわけではなく、目元も普段の快活な様子が見て取れた。
そこへ、チリンとベルが鳴り、来客を知らせた。それは三成であった。
三成は兼続を見つけるなり、まっすぐにそちらへ向かい、いつもの通りに隣に座った。
「やっと来たか。ひとりで飲むのも退屈なものだ」
遅い友人の登場に、兼続は満面の笑みを見せた。対して三成は、すまない、とだけ答えて店員にグラスを注文した。
さっそく用意されたグラスにアイスペールから氷を取り出し、グラスに放り込んだ。そこへ兼続がウイスキーを注ぐ。ボトルの中身はあまり多くなく、ずいぶんと傾けなければならなかった。
「最近来るのが遅いな。忙しいのか?」
「まあな」
三成は言葉少なに答える。饒舌なほうであるかどうかと言えば、三成は饒舌に分類してもいい(とはいえ、愛想がいいわけでもない)と思っていた兼続は、なにかあったな、と勘をめぐらせる。
しかし憂鬱に埋もれている様子でもない。単純に、疲れているのか、それとも例の案件か。兼続はそれを訊ねてよいものか悩んだ。
「仕事が、終わらないのだ」
兼続が問うまでもなかった。
訝しむ兼続を察した三成が答えを出した。
「毎日が繁忙期みたいなものだからな」
「たしかにそうだ。だが、多少のばらつきはあれど、以前のデータと平均値はさほど変わっていない。毎日グラフを見ているのだぞ。著しく仕事の効率が下がるような案件が起きたとも聞いていないな」
三成のフォローは、むしろ墓穴を掘ったようだった。
ウイスキーを口に含み、少し味わい嚥下する。その音が鮮明に店内に響いたような錯覚を感じていた。そして兼続が鋭い視線で自分の頭の中を覗いている。三成にはそう思えてしかたがなかった。
実際、兼続は少し酔いが回ったのか寝ぼけ眼で三成を見ているだけだった。
「……幸村の件はどうなったかね?」
少し呂律が危うげな様子で兼続は問う。思考もあまり統率がとれていないのだろう。今まで慎重に取り扱っていたことを、愚直なまでにそのまま言葉にしていた。
「どうとは」
「まだなのか?」
「……もう少し先の話だ」
「そうか。なにやら悲しいな。幸村は私達のことなど知らないだろうけれど」
「知らないな」
「私達はよく知っている。幸村がどんな人間で、どんな食べ物が好きで、嫌いで、意外とくすぐりに弱いとか。あと、そうだな。幸村は三成にやたら懐いていたな」
「お前、飲みすぎだ」
三成は兼続のグラスを取り上げ、彼の様子を探る。
「お前はまだ幸村のところへ行っているんだな。だから、仕事がはかどらないのだろう」
だいぶ氷が溶けて飲みやすくなったウイスキーを、三成はぐいと飲み干した。そして新たに氷とウイスキーをグラスに注ぎ、それもまた飲み干そうとした。しかし、兼続の二の舞を踏むことになることを案じ、一口含むだけにとどめた。あまり酒に強い性質ではないことを、彼はよく知っていた。
兼続は酒には強かったが、いかんせん、ひとりで飲んでいる時間が長かった。泥酔とまではいかないが、理性が上手に機能していない。
「お前は、何を見るつもりだ? 今の状況でさえ充分に免職もありうるではないか。この職を失ったらどうなるか、わからないわけでもないだろう」
「もちろんだ。だが、逆に問うぞ」
もう一度ウイスキーを口に含み、飲み込んだ。まだ氷が溶けておらず、度数が高かった。ノドが焼かれるような熱を持った。
「この職を続けて、何を見る、なにかを成すか、どれほどのものを得ると。なにもないだろう。それは今まで議論してきて、俺もお前も痛感してきたことだ」
兼続は黙って聞いていた。少し締まりきらなかった表情は、いつの間にか険しいものとなっていた。だが、それでいて静かな湖面を感じさせる雰囲気を持っていた(相変わらず、頬に赤みは残っていたが)。
「俺は、あの上司と同じだ。自分の忌み嫌った上司と同じ根性なのだ。惰性に支配されて、いつか打破してやる、変えてやると意気込んで、でも恐れている。この職を失うことを。どういうことか、わかるだろう。無を恐れていたのだ。だからこうして、好きでもない仕事を延々と続けて、ああ憂鬱だと、自分の堕落を棚に上げて文句ばかり述べるのだ」
三成は止まらなかった。酒の勢いも少しは手伝っていたのだろう。
鬱蒼と茂っていた憂鬱が、ようやく出口を見つけて噴出したかのような勢いだった。憂鬱は長年蓄積されて、高い濃度を保っていた。
「やめて、なにが悪いのだ。俺がいなくても時間は進み続ける。世界は変わってゆく。俺が来る前まで、ここは全く仕事になっていなかったのかと言われたら、そんなことはない。俺がいなくても回っていた。ならば、俺がいなくなっても以前に戻るだけだ」
思考はひどく能動的となっていた。止めなければいつまでも、話を展開させ続けそうな三成を、兼続は制した。
「お前がやめてしまったら、私もここにいる理由はないな」
その言葉に、三成は驚倒した。
「兼続、お前が言ったのだろう。この職を失することが、何を意味するか、と」
「そもそも、私達はどうしてこの職へ就くことを決意した?」
振り切るように三成はウイスキーをぐい、と飲み干した。
「今日は、俺もお前も飲みすぎた。お開きだ」
07/29