消化日程



 壁というものがある。それは思想でもなんでもない。
 誰かにとっては当然でも、別の人間にとっては受け入れがたいことなど多々あるものだ。理由が明確である場合もあるし、不明瞭の場合もある。それは誰かと誰かが別の人間であることを示していることに他ならない。
 そういうとき、受け入れようと歩み寄る人もあれば、頑なに拒絶する人もあり、認めよと強要する人もある。








「おはようございます」
「……」
「挨拶は、大切です。ちゃんとしなくては」
「うっへー」

 曇天の空にはふさわしくないほど、さわやかな笑顔を浮かべているのは幸村であった。幼さの残る顔立ちだったが、妙に大人っぽさを感じさせる笑顔だった。
 幸村の隣には、一人の眼帯をした少年が立っている。かっちりと制服を着込んでいる幸村とは対照的に、ワイシャツの第一ボタンどころか第二ボタンも留めておらず、ブレザーからはだらしなくカーディガンがはみ出していた。
 二人は見るからに、優等生と今時の子、といった組み合わせだった。
 周囲には彼らと同じ制服を着た人間が同じ方向へ向かって歩いている。

「そういえば、政宗さんはテスト勉強しました?」
「してると思うか?」
「あまり」
「その通りじゃ」

 誇れることでもないが、胸を張って堂々と主張する政宗に幸村の笑顔は苦笑いへ姿を変えた。呆れから生まれる笑いではなく、しかたのないやつだ、という親しみのこもった苦笑いだった。
 まるで決定的に優劣が定まったかのような幸村の苦笑に、政宗はムッとしたのか、幸村の膝の裏側に軽く蹴りをいれた。

「いきなりなにをするんですかっ」
「なんか、その顔、腹立つぞ」
「顔ですか。顔はどうにもなりませんねえ」

 また、やんわりと幸村は苦笑いを浮かべた。

「わしは、勉強なんぞムダだと思っとる。だからせん」
「そうですか? ムダなことほど、楽しいものですよ」
「楽しいムダと楽しくないムダがある」

 そこで学校の正門に到着した。
 幸村は何も言わなかった。言いたいことはたくさんあったようだが、苦笑を浮かべたまま口を閉ざしていた。それを不思議に思ったのか、政宗はちらちらと幸村に視線を送ったが、ブンブンと首を振ってその後幸村を見ることをやめた。彼は幸村を心配している自分を恥じたのだろう。恥じることなど何もなかったが、彼には彼なりの矜持があった。
 正門を抜けたところで、幸村はふと振り返った。つられて政宗も振り返った。

「三成さん」

 古めかしさのある、立派な正門の上に三成は足と腕を組んで座っていた。黒いスーツ姿の若い男が、学校の正門の上で偉そうに座っている。その姿が幸村には奇妙におもしろく感じられた。
 政宗は、幸村の視線を追いかけるが何を見ているのかわからなかった。訝しげに幸村を見ている。

「おい、幸村」

 怪訝に問いかける政宗に、幸村は気を取られた。次に正門を見たときには、三成の姿はもうなかった。

「シカトするとは、いい度胸じゃな?」

 まるで不思議な気持ちに覆われる。
 数えるほどしか三成と幸村は会っていない。しかし幸村は、なぜか三成に対して妙に心を許してしまっているようだ。その事実が幸村は理解しかねた。ましてや、相手の存在は、この政宗にはちっとも見えなかったようだった。
 むしろ、そんな存在だからこそ、ということもあるのだろうか。いや、そんな理屈があるものか。幸村は考え抜こうとしたが、政宗がそれを許さなかった。

「またシカトか、ボケ!」
「うわっ」

 政宗は渾身の力をこめて、自分のカバンで幸村の頭を殴った。
 完璧に政宗のことを忘れていたのか、幸村は油断しきっていた。そのため、すっとんきょうな声をあげてしまった。顔を真っ赤にして、幸村は政宗を追いかけた。

「いきなり、痛いじゃないですか!」
「はんっ、お前が悪いんじゃ、お前が!」

 逃げる政宗を追いかけながらも、幸村は考えていた。しかし、走っているうちに何を考えたらいいのか、どう考えたらいいのか、それがいまいちわからなくなってしまっていた。
 幸村は立ち止まった。
 政宗は下足箱に向かい、素早く靴を上履きへ履き替えている。しかし追いかけてこない幸村を不審に思い、その場でジッと幸村を見ている。

「……全部、政宗さんのせいです!」
「なんの話じゃ!」

 それから幸村は怒濤のごとく靴を下足箱に放り込んで上履きを手に掴み、廊下を走りぬけた。
 二人が教室に着くころには髪はぼさぼさに乱れ、額に汗を滲ませるほどとなっていた。ぜえぜえと肩で息をしながら、幸村は政宗の首根っこを掴んだ。政宗の身長はあまり高くなく、少し低いくらいなものだったが、幸村の身長は高かった。

「は、な、せ!」
「……まったく」

 幸村は何か言いたげだったが、何も言わず政宗を掴んでいた手を離した。
 しりもちだけはついてたまるか、と言わんばかりに政宗は大袈裟に体をバネのようにして着地し、幸村と間合いをとった。
 そもそもは、政宗がちょっかいをかけたというのに。幸村は自然とこぼれそうになるため息を飲み込んだ。

「さて」
「なっ、なんじゃ」
「テスト勉強でもしますか。付け焼刃でもしないよりかはマシですよ、きっと」
「む、やらんぞ。わしは絶対にやらん」
「いいじゃないですか、たまには政宗さんと勉強でもしたいのですよ」
「なんでわしなんじゃ! 勉強なぞ、他のやつとやっとればよかろうに!」
「政宗さんとがいいんですよ」
「いみがわからん!」

 なぜ自分なのだ、とぼやく政宗を、席に座らせ、幸村は教科書とノートを取り出した。それを政宗の前に広げ、簡単にテスト範囲を述べた。

「ここは、たしか先生が出るって言ってました。こっちは、さほど出ないかと。あとあの先生はこういうところからよく出すので、見ておいたほうがいいですよ」
「ふん」
「政宗さんは、やらないだけで別に勉強ができないわけじゃないでしょう」
「まあな。興味がないだけじゃ」
「なら、テストまで眺めておいてください」

 意外にも政宗はその言葉に従った。本当に頭にいれているのかは定かではなかったが、とにかく教科書を眺めていることには違いなかった。もしかすると、これまでの不勉強がたたり、進級が危ぶまれている状況であるのかもしれなかった。
 そして手持ち無沙汰になった幸村は、自分もノートを眺めることにした。とはいえ、飽きるほど勉強しつくしてしまったせいか、どのページを見ても退屈だった。

「物好きだな」

 彼らの座っている隣の席に三成は座っていた。椅子ではなく、机の上だったが。
 幸村はちらり、と三成を見る。やはり、教室と三成という組み合わせがどこかおかしく感じられた。
 教室に黒いスーツを着た見たこともない人間がいるというのに、誰も彼には気がつかなかった。政宗さえも、教科書に集中しきっていないというのに気付く様子はない。わかりきっていたことだったが、幸村には非常にその状況が奇妙だった。

「学ぶ気のないやつを、学ばせようとするなんて。ボランティア精神とでもいうのか」

 幸村から返事が返ってくるわけはなかった。ここには三成に気がつかない多くの人がいる。そこで幸村が、誰もいない(と周りには見える)ところに向かって延々と会話をするなんてことが、できるわけがなかった。
 視線も三成から離し、文字が躍るノートを眺める。それでも意識は完璧に三成に向かっていた。

「わかっているさ。なにしに学校へきたか、それが知りたいのだろう。別にたいしたことじゃない。他に用があったついでだ。歩いているのを見かけてな。伊達政宗もいるものだから、気になったのさ」
「政宗さんを?」
「む、なんだ」
「あ、いえ、なんでも」

 思わず声に出してしまった幸村に、政宗が反応した。慌てて幸村は弁解し、政宗は興味がなくなったと言わんばかりに教科書に視線を戻した。

「なんとも、因果だな、幸村」

 あ、と幸村は気がついた。
 自分が、三成に対してどうにも警戒するものが弱いのは、この人があまりに慣れ親しんだように自分の名を呼ぶからだ。
 自分のことを以前から知っていたのだろうか。いや、知っていた。最初にあった時から三成は自分のことを知っていた。ではいつからだろう。
 ひとつの疑問が解けたとたん溢れ出てくる新たな疑問に、幸村は頭をかかえたくなった。

「さて、邪魔をするつもりで来たわけでもない。またな、幸村」

 そう三成は言い残して、いつの間にか消えてしまった。





07/23