私は叫んでいる
あるものといえば、矜持くらいしかなかった。そんな人間が、一度下した決断を易々と覆すことはないと言ってもいい。些細な日常的なことから、隠された決意まで、それは当てはまるものだ。
取り巻く状況を許せるか許せないか、それは単純な好き嫌いではなく、その矜持が許すか許さないか、である。
「おや、珍しい。三成が残業とは」
「……ただの調べごとだ。仕事とは関係ない」
「ほう、熱心だな」
あれほど時間外労働を拒んでいた三成が、と兼続は大袈裟に驚いてみせた。
そのわざとらしさに三成は眉をしかめ、大判の分厚いファイルを閉じ、目頭をこすった。背を思い切り伸ばし、ひとしきりのびきって大きく息をついて、ようやく兼続に興味を向ける。
「お前こそ、四十課は辛気臭くて嫌いだろう。そんなところまでくるなんて、珍しいな」
「なぁに、気が向いただけだ。なぜか三成に会おうって気分になってな」
「しょっちゅう顔を合わせているだろう。何を今さら」
「それがなぜだかわからんのさ」
腕を組み、本当に不思議そうに肩を竦める。説明のしがたい、なんとなく、や、勘というのは彼らにとって苦手分野だった。
そして兼続は、三成の手元にあるファイルに興味を示す。
「何を調べて?」
「お前にはあまり関係ない話だ」
黒ずんだ青い表紙のファイルの背には、『十三』とだけ書かれていた。ファイルから少しはみ出ている紙は薄く黄ばみ、ぼろぼろに擦り切れていた。相当古い資料であることが見て取れる。
さすがの兼続にも、『十三』だけではなんの資料の十三番なのかわからず、ますます興味を深めた。
「関係ないことほど気になるものさ。さあさあ、それがなんなのか吐きたまえ」
「残念だが、四十課における情報の取り扱いに関する保護法によって、部外者には見せられんのさ」
「……ああ、そういうことならしかたないな」
まだまだ食いつきそうであった兼続は、あっさりと引き下がった。
彼もまた、三成と同じように規則を重んじる。たとえどれほど興味があったとしても、規則によって禁じられているものを強引に見ようとはしない。お互いに友人であれど、そういった点においては決して踏み込まないのだ。
食いついた理由は単純に、図書館から借りてきた資料かなにかだと思っただけだった。
古臭いファイルを引き出しの中に乱暴に放り込んだ三成は、もう一度大きく伸びをした。それから首を動かし、ゴキ、と音を鳴らす。あまりに大きな音だったので、兼続は驚いていた。
「今日もおつかれのようだな」
「そうだな、疲れたかもな」
「おや、珍しい。今日はあまり不満がなかったのか?」
「始末書を書かされたくらいだ」
三成はなんてことない、と言わんばかりにピラリと紙を放り投げた。ふわりふわりと紙は行ったり来たりを繰り返し、床に降り立った。
呆れきった顔で兼続はそれを拾い上げる。
「まったく。始末書だって? お前が? なにをしたのか知らんが、こんな粗末に扱うな」
「そんなもの、ただのテンプレートに過ぎない。上司もわかっている。それに、よくあることだ」
「……はあ、接客のクレームとはお前らしい」
「クレーム処理課から、俺へのクレームが異様に多いと、クレームが来たのだよ」
三成は兼続から始末書を受け取り、それを紙飛行機に折って窓際の机に向けて放り出した。すいすいと飛んでいった紙飛行機始末書仕様は、ちょうどその机の上の書類の山に当たり、あえなく落ちた。
見事に狙いが的中し、少しの労働で始末書提出が済んだ三成は上機嫌に帰り支度を始める。
「呆れて言葉も出ん」
「そうか?」
「そうだ」
「始末書の提出の仕方に対する特別な決まりはないからな」
「それを、揚げ足取りと言うのだよ」
「なんと」
なんと、じゃない、なんと、じゃ。
煮え切らない兼続を尻目に、すっかり支度を終えた三成は、早々にデスクを離れ、オフィスから出た。兼続は慌てて後を追いかけた。
三成に追いついた兼続は何か言いたげであったが、無言によって訴えることにした。意外と三成にはこれが応えることをよく知っていたからだった。三成は言葉によって批判されることは慣れっこだった。彼は人にあまり好かれる性質ではなく、様々な非難をその身で受けてきたからである。だが、友人の無言による訴えともなると、話は別だった。
階段に差し掛かり、無言の応酬を繰り返しながら落ちるように階段を降りてゆく。
いい加減に居心地の悪さを感じ始めた三成は、深いため息をついて、恨めしげに兼続を見遣る。三成もまた、無言で訴えた。
あまりに埒が明かない討論に終止符を打ったのは、兼続のほうだった。
「最近、おかしいぞ」
「俺は、別に変わっていない。前から仕事は嫌いだったし、上司も嫌いだ」
「それでも上司はやはり上司だ。目上の存在であることに変わらない。お前は嫌でも最低限の礼儀ははらっていたではないか」
「必要がなくなったからだ」
「どういう理由で、必要なくなるのだ。お前の上司は、やめるのか?」
問いただす兼続を纏う空気が、さあ、と変わる。
三成はおや、と思った。
「やめはしないが」
どこかで似たような経験をした。それがなんだったか、三成は思い出せずにいた。
「あいつがやめる理由はない。あいつは惰性に支配されているのだ。ただ無為に日々を消費するだけで、断ち切ることもできない臆病者だ」
「しかし」
「わかっている。俺達がそれを責めるにはあまりに矛盾が過ぎている。そして、それを責められる状況になったとき、俺達には語る言葉がない」
「それは」
「ところで兼続」
兼続が何かを言いかけたところで、長い階段は終わった。
言葉を遮った三成は、行きつけの店を指差した。
定時を過ぎて時間が経っているというのに、人の姿はまばらだった。この建物は全てを複合している。全てがここで完結するのだ。
07/21